豊かな構想力をもつ一方で実に静かなこの男に後藤は惚れた。ひたすら彼を信じて仕事を任せた。2024年05月28日
本稿は、月刊Hanada最新号の巻頭を飾る渡辺利夫氏の連載
「第26回 人を残して死ぬ者は上だ」
の核心部分を紹介するものである。
後藤新平は「金を残す者は下、仕事を残す者は中、人を残す者は上」と語った人物として知られる。
台湾統治期における基隆築港、南北縦貫鉄道、土地調査事業といった三大事業を成功させた背景には、後藤の人材抜擢力と、選んだ人物に対する絶大な信頼があった。
・基隆築港では長尾半平を抜擢し、周囲が驚くほどの即断で計画を承認。
・土地調査事業では若き中村是公を大抜擢し、7年間で147万人を動員する「社会革命」を成し遂げた。
・児玉源太郎と後藤の政治力により、台湾事業公債が成立し、台湾の自立と産業発展が加速した。
後藤が育てた人材は満鉄や東京市長など、日本近代化の最前線で活躍していく。
本論文は、国家指導者に不可欠な「人を残す力」が、いかに国運を左右するかを深く示す、世界的に読まれるべき内容である。
豊かな構想力をもつ一方で実に静かなこの男に後藤は惚れた。ひたすら彼を信じて仕事を任せた。
2024年05月28日
以下は発売中の月刊誌Hanadaの巻頭を飾る渡辺利夫氏の連載コラムからである。
本論文は、日本国民のみならず世界中の人たちが必読。
第26回 人を残して死ぬ者は上(じょう)だ
″よく聞け、金を残して死ぬ者は下だ。
仕事を残して死ぬ者はmiddle classだ。
人を残して死ぬ者は上だ。
よく覚えておけ。”
出典は明らかではない。
第三者がひねり出したフレーズかもしれないが、後藤新平の語りだと伝えられている。
たしかにそういうふうに生きた人間が後藤なのであろう。
特に”人を残す”という面で後藤は刮目すべき成果を残した。
諸事業完遂のための人材抜擢、抜擢された人間への全幅の信頼、信頼に答える技術者や官僚の献身、これらが後藤の事業成功の一因であったように思われる。
台湾開発を事例に二つのことを語っておこう。
一つは土地調査事業、もう一つは南北縦貫鉄道の起点、基隆(キールン)の築港である。
後者から入ろう。
台湾海峡沿いの西海岸には良港にふさわしい深度がない。
東海岸は中央山脈が迫り峻険な山々が一気に海に沈み込んで形成された海溝ばかりである。
西も東も海岸線の出入りが少なく築港は容易ではない。
せめても基隆、高雄の二つだけが適地である。
基隆には清朝の時代に開かれた港があった。
しかし粗末なもので、縦貫鉄道敷設のための資機材の搬出入には耐えられない。
築港のための港湾技師として後藤が抜擢したのが三十歳代半ばの長尾半平(はんぺい)である。
長尾は東京帝国大学工科大学土木工学科を卒業のあと、山形県ならびに埼玉県の土木課長職にあった。
台湾の知事の一人として赴任してきた元山形県知事の木下周一から長尾の力量のことを聞き及んで、後藤は長尾を総督府民政部土木課長として招いた。
豊かな構想力をもつ一方で実に静かなこの男に後藤は惚れた。
ひたすら彼を信じて仕事を任せた。
基隆はモンスーン期になれば風浪が絶えない。
水深が浅く一千トンくらいの船舶でもかなりの沖合に投錨(とうびょう)、そこから艀で乗客や資機材を運び込まねばならない。
防波堤の建設と浚渫(しゅんせつ)が欠かせない。
長尾はこれまでの知見と欧米の最新技術を動員してプランを練り、児玉源太郎と後藤を前に二時間近く必死の思いでこれを説明した。
児玉も後藤もこの間、合いの手を一切入れずただ聞くのみ、説明が終わろうとするところで児玉はいう。
「よかろう、後藤君、これでやってもらおうじゃないか」「よろしうございます。長尾君それでやってくれ」
二人の即座の判断に長尾は度肝を抜かれ、その後はひたすらの努力であった。
台湾縦貫鉄道の建設資機材の大半は、貨車、客車、レール、枕木、石材、セメント、石炭など重量と積量においてきわめて大きなものばかり、いずれも日本本土や欧米からの輸入に頼るしかなかった。
基隆と高雄まで船で運び、そこから各所に配分する。
縦貫鉄道の敷設は基隆と高雄の築港と同時に進めなければならなかった。
基隆の築港という台湾開発の大事業のすべてが長尾に委ねられ、長尾も心血を注いでこの事業にあたり、予定通りの竣工となった。
長尾はこのあと、さまざまな職籍を経て最後には朝鮮総督府に転任、同地で没した。
日清戦争前、台湾は清国領であったが、この国には台湾を開発する意図はまったくなかった。
住民に「戸籍」があるように、本来、土地には「地籍」がある。
所有者、地番、地目、境界などである。
日本統治前の台湾島には豪族が入り乱れ土地を奪い合い、土地を管理すべき政府自体が存在しないも同然であった。
この乱脈な土地を引き継いだのが総督府である。
統治が開始された頃、統治のための財源は地租に求めるのが普通である。
しかし台湾の土地の地籍は曖昧であり不明であった。
本格的な土地調査事業を展開しなければならない。
「臨時台湾土地調査局」を設置、後藤が局長となり、この事業を実質的に差配する局次長に若年の中村是公が抜擢された。
中村は八百余人の総督府役人を数十班に編成、各班は三角測量機を手に全島に散らばっていった。
地方官僚や現地住民を含めると、調査完了までの七年間に延べ百四十七万人が動員されたと記録される。
中村は第一高等学校を経て東京帝国大学法科大学を卒業、大蔵省人省、秋田県収税長として二年間勤務、この間に大蔵次官の田尻稲次郎の信頼を得て台湾総督府赴任を勧められ、フロンティア開発に携わることになった。
土地調査事業の結果、事業開始前には約三十七万ヘクタールであった土地面積は六十三万ヘクタールとなり、地租は八十七万円から二百九十八万円へと急増した。
同時に、当時「大租戸」と呼ばれていた不在地主の土地所有権を総督府が買い上げ、これを耕作農民に譲渡するという所有権改革にも打って出た。
土地買収の財源は同時に成立した「台湾事業公債法」にもとづく公債により充当された。
往時の日本の代表的ジャーナリストの竹越與三郎は台湾の土地調査事業を観察し、自著『台湾統治志』のなかで、「明治七年の地租改正の如きは、真に児戯に類すの感あるを免れず」と述べ、さらに「是れ実に台湾に於ては、社会的の一革命と云はざるべからず。然れども多くの革命は犠牲を要すれども、此革命は何者をも犠牲とせざるのみ」と記している。
南北縦貫鉄道、基隆築港、土地調査事業は台湾の三大事業と呼ばれていた。
それぞれが長谷川謹介、長尾半平、中村是公に委ねられ、それぞれがうまく展開できたようにみえる。
しかしカネは大いにかかる。
日清戦争に巨費を投じて蕩尽する本土政府からの借入は難しい。
公債発行が不可欠であった。
三大事業に成功すれば台湾は必ず自立できる。
自立すれば台湾には本土の大資本が製糖、米、茶、樟脳、檜材の利を求めて進出してくる。
元本・利子の返済は必ず実行できる。
児玉と後藤は本土政府との交渉に勝負をかけた。
台湾領有の時点では、台湾内の租税によってまかなわれる総督府収入は歳出の三割のみ、残りはすべて本土政府からの補助金に依存しなければならなかった。
「台湾売却論」が本土の政府や議会で話題を呼んだのも無理からぬことであった。
しかし児玉と後藤は怯むことはなかった。
最後の頼みの綱は時の海軍大臣の西郷従道であった。
長兄に隆盛をもつこの軍人のいかにも大人らしい鷹揚で懐の深いものを後藤は感じ取り深く敬っていた。
隆盛の薩摩への下野に従わず、明治新政府を軍人として内側から支えるという、いわくいいがたい従道の心中の葛藤に人間としての濃い陰影を感じていた。
最終的にはこの人物が動いて台湾事業公債は陽の目をみた。
中村是公は後藤が初の総裁として着任した満鉄の副総裁に抜擢され、後藤が満鉄を去ったあとには第二代の総裁に任命された。
大正十二年九月の関東大震災後の帝都復興には、後藤の強い推挙を受け東京市長として邁進した。
昭和二年三月一日、胃潰瘍にて急死、享年五十九であった。

2024/5/25 in Kyotoコメント