昭和天皇は松岡洋右がお嫌いだったが、朝日は「松岡讃歌」を作詞・作曲

昭和天皇は全体主義国家に強い警戒心を抱き、独断で日本外交を進めた松岡洋右を最も嫌っていた。にもかかわらず、朝日新聞は松岡を称揚する「松岡讃歌」まで作成していた。昭和天皇の靖国参拝中断には野党勢力の反対運動が影響していたことが実録で明らかになり、A級戦犯合祀だけでは説明できない複雑な背景が浮かび上がる。本稿は国際連盟脱退をめぐる昭和天皇の本心と、日本外交の分岐点を検証する内容となっている。

以下は前章の続きである。

見出し以外の文中強調は私。

昭和天皇は松岡洋右がお嫌いだったが、朝日は「松岡讃歌」を作詞・作曲 

実録・独白録から昭和天皇のお気持ちを推測すると、皇太子時代に留学した英国に特に親近感をお持ちだった。

英米には親近感、これとは対照的に全体主義国家のドイツやソ連には強い警戒心を持たれていた。

日本外交を独善的に進めてきた松岡洋右は、国際連盟脱退・日独伊三国同盟を進めた張本人。

昭和天皇の最も嫌いな人物で、天皇は近衛文麿首相に強く解任を要請していた。 

2006(平成18)年、日経新聞が報道した「富田メモ」(富田朝彦・元宮内庁長官、故人)について、実録ではメモ報道の事実に触れ、「靖国神社におけるいわゆるA級戦犯の合祀、御参拝について述べられる」(1988年4月28日記述)と記されているが、中身には触れていない。

実録は、極力、天皇の心中には入ろうとしていない。 

1975(昭和50)年が最後になった昭和天皇の「靖国参拝」。

「参拝の中断」と「A級戦犯合祀」との関連の問題ついては、肯定する見方と否定する見方があるが、ここでは詮索しない。

しかし、日本社会党(現・社民党)など野党各党の反対運動が影響していたことが実録で明らかにされた。

すなわち参拝に不可欠な静謐な環境が保てなくなったことが影響していると思われる。

それと、人物観察眼の鋭い昭和天皇のこと、個別の人格を冷徹に見抜いていたと思われる(46年6月に松岡洋右は獄中で病死)。

「A級戦犯」云々というような、一括りで論ずる問題ではあり得ない。 31(昭和6)年の満州事変後のリットン調査団による「日本非難報告」採択に、松岡は大いに不満だった。

33(昭和8)年日本の全権大使だった松岡は、国際連盟を独断で脱退。

しかし、国際協調を願っていた昭和天皇は、国際連盟脱退に反対だった。 

国際連盟は、第一次大戦中の18(大正7)年に設立された。

米国ウィルソン大統領が、「14ヵ条の平和原則」を発表して平和維持機構の設立を呼び掛け、設立されたものである。

加盟国は42力国で、イギリス・フランス・日本・イタリアが常任理事国だ。


「脱退」とは余りに短兵急。

脱退以外の途も探るべきだった。

日英同盟の「期限終了」と同様、日本にとって悔やまれる出来事だった。

この稿続く。

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