「検察の筋書き、『そうかも』と思う怖さ」
取り調べは魔術のよう 家族の支えで否認貫く
村木元局長と弘中惇一郎・主任弁護人から判決前の記事化について承諾を得た上で、2日に埼玉県内の元局長の自宅で取材した。
元局長は昨年6月、自称障害者団体が同制度を利用するための偽の証明書を発行するよう部下に指示したとして、虚偽有印公文書作成・同行使容疑で大阪地検特捜部に逮捕された。特捜部の調べに元局長の指示を認めたとされる元部下らが公判で次々と証言を覆し、地裁は捜査段階の調書の大半を証拠採用しないと決定。立証の柱を失った検察側は6月、推論を重ねることで元局長から元部下への指示を説明し、懲役1年6ヵ月を求刑した。
村木元局長は逮捕後、容疑者自身が取り調べ状況などを記す「被疑者ノート」などを弁護人から差し入れられ、拘置所でつけていた。こうした記録をもとに、検事から「執行猶予付き(の有罪判決)なら大したことはない」 「長い裁判を考えて容疑を認める気持ちにはならないか」と言われ、怒りのあまり涙が出たことを明かした。
捜査については「郵便割引制度を悪用した大事件だけに部下が単独でやったと考えにくかったと思う」と理解を示しつつ、「取調室で検察が作った私が知らない事件のストーリーを何度も聞かされると、『そうかもしれない』と思ってしまう怖さがあった」と指摘。捜査段階で元局長の関与を認めたとされる元部下らに対しては「恨む気持ちはまったくない」と語った。
勾留生活の心の支えになったのは同じ厚労省官僚の夫と娘2人の存在で、支援者からは約500通の手紙が届いたという。
大阪地検の捜査取調室は私、検事、事務官3人。そこで、検事は特捜が作った私か知らない事件の「ストーリー」を繰り返しました。途中で「そうかもしれない」と思い、自信を持って否定できなくなる。「魔術」にかけられそうな怖さがありました。
取り調べが始まって10日目、検事があらかじめ作った供述調書を持ってきました。それには、これまで言ったことがない元上司や部下の悪口が書かれていました。「こんなものにサインできない」と断ると、検事は「私の作文でした」と認めました。
逮捕から6日後の昨年6月20日の取り調べでは、検事に「容疑を認める気持ちはないか」と説得され、さらに「執行猶予付き(の有罪判決)なら大したことはない」と言われた時は、怒りで涙が出ました。「一般市民には犯罪者にされるかされないか、公務員としてやってきた30年間を失うかどうかの問題だ」と訴えたことも覚えています。
私の指示で偽の証明書を発行した、と捜査段階で説明したとされる当時の係長(上村勉被告、同罪で公判中)らを恨む気持ちはない。逆にそういう調書を作った検事が怖い。公判では、凛の会側から証明書発行の口添えを依頼されたという国会議員が、その日に別の場所にいたことも明らかになりました。私たちは検察を頼りにしているし、必要な組織。捜査のプロとしてきちんとやってほしかった。
拘置所の日々
朝晩の点呼の時は自分につけられた「13番」と答えました。昨年6月14日の逮捕の翌日、容疑者が裁判官の勾留質問を受けに行くための専用バスに乗る際、初めて手錠と腰縄をつけられました。腰縄をきつく締められた時、「これが犯罪者の扱いなんだ」と感じました。
拘置所では約150冊の本を読みました。朝と夜に聴けるラジオでは、頻繁に児童虐待事件のニュースを耳にしました。そのたびに(雇用均等・児童家庭局長だった自らの立場から) 「何とかしたい」と思いました。
家族との接見が禁止されている時は弁護士が何度も接見室を訪れ、アクリル板ごしに「しっかり心をもって」「100%信頼しています」などと書かれたり、夫(56)と長女(25)、次女(19)が並んだ写真が張られたりした手紙を読ませてくれました。3人とは100回以上、文通もしました。夫と頻繁に手紙をやり取りしたのは初めてで、気持ちを伝えたい大切な相手だと改めて気づきました。
否認を貫けだのは、娘2人の存在があったから。自分が頑張れない姿を見せてしまうと、「2人が将来つらい経験をした時にあきらめてしまうかも」と思ったのです。共働きだったので、娘とI緒にいる時間が少なくて、申し訳ないとずっと思っていました。
今回はそんな2人に助けられたのです。大学受験を控えていた次女は私と接見するため、夏休み中は大阪の短期マンションを借り、塾に通いました。
判決前の心境
やれることは全部やりました。言えることは全部言いました。真実は強いと思っています。静かな、落ち着いた気持ちで判決を待っています。
2010年9月5日 日曜日 朝日新聞朝刊