昨夜、遅くのTBSのニュース番組を観ていたら…。

昨夜、遅くのTBSのニュース番組を観ていたら、今回の事のコメンテーターとして、立花隆が出ていた。「くじで選抜されたら、世論と同じ結果に成るのは当然なんですよ」彼は、元々、ジャーナリストだったはず。

誰が、どのようにして、どの様な人を選抜して、どのような検討の仕方をしたのかを検証しなければジャーナリストとは言えないと僕は思う…彼は、もはやジャーナリストではなくて、学者さんなのだろうから批判するのも当たらないのかもしれないが。

今回の事で芥川が思う事は、活字人口6,000万人として、週刊朝日の発行部数は26万部ですから…今回、選抜された11人の人が週刊朝日を購読していた可能性は限りなくゼロに近いものだろうな、と言う事。

新聞は全員読んでいるだろうし、テレビは全員観ているであろうことは無論。
週刊朝日は読んでいなくても週刊文春や週刊新潮を読んでいる確率は2倍であることも無論。

同様の違和感を持った事について…大坪弘道特捜部長が事情聴取を受けた時、或る時期の知人に大坪姓の人が居たのだが、もしやその人の御兄さんでは…国立大学出…と思い、ネットで検索した時の事。

ウィキペディアの直ぐ下に「あのひと検索スパイシー」と言うのが在った。
叩いてみたら、人物相関図が出て来たのだが、右隣にデンと飯島勲の名前が出て来たのである…なんで、この人が。

管直人氏は「一人では何も出来ない」と言ったが、この時も、僕は違和感を持った。

こんな例えは出したくなかったのだが、今回の日中の強烈な不協和音をもたらしたのは誰かと言えば、漁師一人というか、海上保安庁の巡視船に体当たりを食らわせた…あの漁船の船長だったのである。

国が体当たりを食らわしたのではないし、そんなことは不可能なのは無論。

つまり、物事は全て、一人に依って成り立っているとも言える訳です。
世論が11人を集める事は不可能なのも無論。誰かが集めるのです。
世論と言うのが勝手に出来るものでは無いのも無論だし、今の日本では大新聞社5紙と、テレビ5局…これは親会社が全てそれぞれの新聞社ですから…実質的には新聞5社が…それも論説委員の方たちが決めている訳です。

政治家が赤坂等の料亭で会合したりする事を密室政治だと論難してきたマスコミが、今回の検察審査会の密室振りには…朝日は、わずかだけ書いていますが、見出しの大きさや、社説の勇ましさに比較すれば、何も書かれなかったに等しいでしょう。

しかも、各党が重要な選挙だと位置づけている北海道補選の前に、発表されたのであれば、11人の方たちの支持政党については、国民に知らされて当然だったのではないかと、僕は思う。

決定自体は民主党代表選挙当日に出されていた訳ですから、この11人の方たちが、どちらの支持者だったのかは明らかにされるべきだと僕は思う。

名前の無い議決ほど不気味で怖いものはないのですから。

僕が政局にリンクしてから感じていた違和感が、もう一つ有ります。
市民…或いは市民政治家、と言う言葉…

抽象的な市民というのは、何処にもいない…全ての人は職業に属している、言わば労働者なのですから…僕が「文明のターンテーブル」で指し示して来たように、「失われた20年」の中で、苦しめられ続けた90%の人と、この間に、生活の苦しみは一度も味わう事が無かった10%の層に分かれるだけではないのか。

自由な市民の様に見える、文筆を生業にしている人達…特に時事の事で、その地位を築いた様な人達の中には、所属関係の様なものが有り、例えば、或る雑誌社は、自民党の或る派閥に対しての批判記事は殆ど書かない事が多い等も知った。

書き出して来て、気付いた事の一つは、新聞と言うものは体制に準拠しているものであるということ。

大分前の章で、モナコの世界的なバレエの女性老教授が「芸術家の大切さ」について語った言葉…芸術家が大事な存在なのは、隠れた、隠された真実に光を当て、それを表現する事が出来る唯一の存在だからです…からは、遠いものである、と言う事。

ただ僕は、芸術家の役割にも似た奮闘を続けた、ここ2年間の週刊朝日だけは、
本当に称えたいと思う。相手にしたのが検察だったのだから尚更なのです。

国家が物を書く事も無いし、何事かの最終決定を下す事も無い。
市民が物を書く事も無いし、市民が起業する事も無い。
全ては一人ひとりの個人が為す事。

僕は、次章で、そのような…体制に準拠したマスコミにこそ伝えたい、加藤周一大人(たいじん)の言葉をアップします。

©芥川賢治

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