続き。
問題の調書を取られたのは、この事件の発端となった自称障害者団体「凛の会」で、事務を手伝っていた女性Aさん(58)だ。Aさんはこう話す。
「私の調書が村木さんを有罪にするための材料に使われそうになっていたなんて、信じられません」
凛の会は「障害者団体」の要件を満たしていなかったにもかかわらず、障害者向け郵便割引制度を利用する目的で、当時、村木氏の部下だった上村勉被告(41=公判中)に、障害者団体と認める公的証明書を発行するよう求めた団体だ。
Aさんは凛の会の創設者、河野克史被告(70=一審は有罪、現在控訴中)に頼まれ、しばしば事務の仕事や広報紙の記事などを書いていたという。
Aさんによれば、大阪地検特捜部から連絡があったのは昨年6月のことだった。
「海津祐司という検事さんからで、一度話を聞かせてほしいとのことでした」指定された09年6月26日は仕事があったが、海津検事(35)の有無を言わせぬ雰囲気に負け、キャンセルした。すでに河野被告らが逮捕されていたため「私も帰れないんじゃないか」と不安に思いながら、午前9時に東京地検に行ったという。
海津検事からは、事件が起きた04年当時、凛の会あてに厚労省から郵便物が届いたことがあったかどうかを繰り返したずねられた。
検察の描いたストーリーでは、「公的証明書」は、04年6月上旬に、厚労省内で凛の会元会長の倉沢邦夫被告(75=一審・一部無罪、検察側控訴)が村木氏から、直接受け取ったことになっている。これを検察は村木氏が事件にかかわった大きな証拠だと主張していた。
Aさんは聴取当日、スケジュールを記載した過去の手帳を持参していたが、問題の04年分については、引っ越しの時に紛失していたという。
「5年も前のことで、よく覚えていませんでしたから。『覚えていない』ということを話しました」(Aさん)
事情聴取が終わったのは夜の7時。最終的につくられた1通の調書にはこう書かれていた。〈お尋ねの時期(04年5月から6月)に、この証明書が「凛の会」あてに送られて来たということはありませんでした。(中略)倉沢邦夫さんや河野克史さんが、直接厚生労働省から受け取ったのだと思います〉
Aさんは言う。「私は『証明書を河野さんたちが直接受け取ったと思う』なんて一言も言っていません。なんで、こんなことを書くんだろうと違和感を感じました。でも、夜だったし、早く帰りたくて、調書にサインをしてしまったんです」
海津検事が、なぜAさんが話していない一文を調書に盛り込まなければならなかったのか。それは、後の裁判で明らかになった。
検察側は事件への村木氏の関与を決定づけるため、倉沢被告を誘導して〈村木氏から直接、表彰状をもらうような格好で公的証明書を受け取った〉とする供述調書を作成していたのだ。
ほかにもAさんの調書にはまだ大きな問題があった。帰宅したAさんは、手帳に代わる資料がないか、家のなかを探してみたという。すると、埼玉県の関連団体である「埼玉県物産観光協会」の仲間と撮影した1枚の写真が出てきた。04年当時のものだ。
「その写真を見て、当時はこの協会で働いていて、凛の会にいなかったことを思い出したんです。そうなると、さっき海津さんに言った厚労省から郵便物が届いたかどうかなんて、知っているはずがない。翌日、すぐに海津さんに訂正の電話をかけました」(Aさん)
他の検事は罪に問われないのか