「世界精神のひとかけら」
芥川の「核武装論」についての見解。
本来…基本的に、絶対的に…貧しい小国に…おまけに、こういう国に限って、民主主義から程遠い、独裁国家…核は持たせるべきじゃなかった…その製造工場を叩いてでも阻止すべきだった…何故?…芥川の脳裏には、皆さま方の誰も思いつかない、「戦争論」が在るからです。
それゆえに、このことについては、一切、言及したくなかったのですが、今朝の、沖縄県人に依る、全段ぶち抜き広告を見て思った。
もし、沖縄県人に、押しつけている…強いている問題を、完全に解決するには、その方法しかないのだとしたら、芥川は「核を持つ国になる」ことに、Yesと言う。
いくら、ヒロシマ・ナガサキを伝えても、世界には「世界精神のひとかけら」も持てない国が後を絶たないのなら…そうして、そのような国に、日本が脅かされ続けるのなら、覇権のためでなく…「世界精神のひとかけら」を持て…と、世界に告げるために。
ただし、いまだに、例えば、自民党の中には、少なからずいるのだろう…「なにものかに属した精神における呑百姓性」を、哲学的に、歴史的に、思想的に、完璧にredressした上での話だが。
所謂、軍人の狂信なんぞとは全く関係が無い…「世界精神のひとかけら」のために。
Fascismの一党独裁国家等に、対抗するためなら、まっぴら御免…それはアメリカよ、世界よ=20世紀資本主義よ、貴方がたの役割だろう…だからこそプラザ合意だって受け入れたし…今だって、毎日、東証で、何もかも受け入れているじゃないか。
欧州だって、いつまでも、アメリカだけに、その役割を押しつけて、己の繁栄だけを考えている場合ではないだろう。僕は、欧州は大好きだが…欧州は、植民地主義的覇権国家しか出来なかったことも歴史的な事実だし…そのことと日本のemperor-banzai-fascismを全く一緒にする気はないが、だからこそ、日本は「世界精神のひとかけら」を持った国になれた…それなのに、いつまでも、「世界精神のひとかけら」がない国の前で、裸で居る訳には、いかんだろう。
今週号のニューズ・ウィーク誌上で…英国の国会議員が日本の安全保障について、長文の論文を書いていた通りだろうが、しかし、
貴方がたがやるべきことは、日本を核武装に向かわせることではないだろう…世界中で、誰よりも速く、そのような事が出来る国であることは世界の衆知の事実…emperor-banzai-fascismに依る、戦争の結果のためでなく…ヒロシマ・ナガサキのために、核武装しない国に…安全保障論を説く前に…貴方がたが、…今、21世紀に至っても「世界精神のひとかけら」を持とうとせず、或いは、体制ゆえに、持てない国を、どうするのかを考える事の方が先だろう、と芥川は強く思う。
以下、10,000字を超えた分は。次章で。