大晦日の前に、一つだけ。…二段に分けて(笑)

政治家になったり、政治を語ることを職業としたり、税金で飯を食う事を選択しておきながら、国民を、己の為に食いものにしたりする者たちには、例え、エリートであっても安穏はない。

 

エリート道から離れて、闇の中の魑魅魍魎(ちみもうりょう)の世界で生きることにも安穏はない…何故?…そこは邪気と餓鬼が、ごまんと居る世界だからである。

 

仏教は、邪気にも、餓鬼にも、救いを与えようとする宗教だと芥川は思う。

 

百八つの鐘は、本来は、地上に蠢(うごめ)く、邪悪なるものを、この世から霧散させるものだったろうと芥川は思う。

 

現代の季語のようなものとは違って、原始仏教では、切実な、邪気払い、邪悪払いだったのではなかろうかと芥川は思う。

 

安穏があるのは、己のためでなく、温故知新の道を邁進している者たちにのみであると芥川は思う…様々な人たち、様々な研究等に取り組んで一生を終えるもの…日本にとっても世界に取っても有用な、素晴らしい企業で、活躍し、自国を富ませ、あるべきビジネスマンとして一生を終えるひとたち…これらの人たちには、安穏があるのだと芥川は思う。

 

共通していることは、己のためでなく、世界のために、或いは、人間のまっとうな営みのために、自分の人生を終えるひとたちであること…家族や、一生を終えるには、十分な、報酬とうは、結果であって、彼らの目的ではない。

 

芥川にとって、2010年を、もっとも象徴したものは、数週間前の、週刊現代かポスト(だったと思う)の記事にあったこと…市民政治家を標榜して来た者、…それだけが、唯一の存在理由だったと言ってもいいのではなかったか…

そのような人間が、己の地位を死守するために、某・大物保守政治家を、自分の思惑に、引き入れるために…これこれしかじかのことは大御心であると言ったと、この週刊誌は書いていた(この事の真偽は、その週刊誌にまかせます)

 

その文脈、内容、から言えば、間違いは無いのだろうと芥川は思った。

 

このようにして、日本の20年には、許されざる偽善…そして間違いが、まかり通ってしまった。

 

下々の世界に、嘘八百(この季節ですから、百八つの邪悪と言いましょう)が、まかり通るのも、むべなるかな、だと芥川は思う。

 

芥川の文章も…写真も、邪気や邪悪に影響を受けている時には、書けない、撮れない…何故か?…それらは、無心の心…自然と…石と、数々の植物と、水と、花との対話、交感の結果だからである。

 

フェノメナン(天賦の才)は、真っ白な心にしか宿らないのだ。

 

たしか明恵上人は、それを明鏡止水と表現した。

 

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