つまり…。
この万両に、気が付く人は、釈迦につながる人なのである。
無私の人で、心が真っ白な人でなければ、この万両には、気が付かないからだ。
知るとは、或いは、人を知るとは、実は、そういうことなのだと芥川は思う。
最澄が、檄を飛ばしたように、「国寶とはなんぞや…お金や宝石では無い…
一隅を照らす人のことである」
芥川は、「文明のターンテーブル」、第一章に於いて、既に、国寶であることを証明したと、最澄の言葉で知った(呵々大笑)
この20年の、テレビを観て育ったような子供たちは、…本来、釈迦につながっていたものが…終に、この万両に気付くことなく、一生を終える様な人間にしかならないであろう。