城内に入ってからも、わしらの対話は続いた…。

家康殿、明治以来、お主は過小評価されただけではなしに悪役扱いされた面があるのじゃのぉ。 それはそうじゃろ。あの頃には、わしが築いた体制は終わりを告げていたのは衆目の一致するところじゃった…時代は変わったのじゃから。特に欧米諸国が人民革命~産業革命を起こして蒸気機関なるもので鉄の船を海に浮かべる等と言うわしらの時代には想像もできなかった技術的な進歩を遂げていたのじゃからの。わしはせいぜい薬の調合を趣味としていた…今でいえば、化学の端をかじっていたぐらいじゃったからのう。

しかし家康殿よ、わしはお主について、やっぱりなと思う事実をウィキペディアで知ったぞ。お主は…最後の部分の黒字化は芥川。

情を排する冷徹な現実主義者との評価がある一方、三方ヶ原の戦いで家康の身代わりとなって討死した夏目吉信の子が規律違反を犯しても超法規的に赦し、真田信之、本多忠勝らの決死の嘆願で真田昌幸を助命するなど、感情に流されるケースもある。特に苦労を共にしてきた三河時代からの家臣たちとの信頼関係は厚く、三方ヶ原の戦いで三河武士が背を向けず死んで行ったという俗説をはじめ、夏目吉信・鳥居元忠らの盲目的ともいえる三河武士たちの忠節ぶりは敵から「犬のように忠実」と言われたこと(『葉隠覚書』)から、少なくとも地元である三河武士が持つ家康への人望は非常に厚かったようだが、一揆を起こされたことも考慮する必要がある。無論、有能な人材も重視し、安祥・岡崎譜代だけでなく今川氏・武田氏・北条氏の旧臣を多く召抱え、大御所時代には武士のみならず僧・商人・学者、更には英国人ウィリアム・アダムス(外国人に武士として知行を与えたのは家康のみ)と実力も考慮して登用し、江戸幕府の基礎を作り上げていった。

 

1月16日、午後3時過ぎ、二条城にて。

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