芥川殿、あの見事なウィキペディアの記述を続けて下され。うむ、わしにはどうでもいいことなのじゃがな。

そして、慶長19年(1614年)の方広寺鐘銘事件をきっかけとして、家康は豊臣氏を完全に屈服させることを決意し、それを拒んだ場合は滅亡させるべく策動を開始した。

 方広寺鐘銘事件

豊臣氏は家康の勧めで慶長19年(1614年)4月に方広寺を再建しており、83日に大仏殿の開眼供養を行うことにした。ところが幕府は、方広寺の梵鐘の銘文中に不適切な語があると供養を差し止めた。問題とされたのは「国家安康」で、大御所家康の諱を避けなかったことが不敬であるとするものであった。さらに818日、京都五山の長老たちに鐘銘の解釈を行わせた結果、五山の僧侶たちは「みなこの銘中に国家安康の一句、御名を犯す事尤不敬とすべし」(徳川実紀)と返答したという。

これに対して豊臣氏は、家老・片桐且元と鐘銘を作成した文英清韓を駿府に派遣し、家康に弁明を試みた。ところが、家康は会見すら拒否し、逆に清韓を拘束し、且元を大坂へ返した。且元は、秀頼の大坂城退去などを提案し妥協を図ったが、豊臣氏は拒否。そして、豊臣氏が926日に且元を家康と内通しているとして追放すると、家康は豊臣氏が浪人を集めて軍備を増強していることを理由に、豊臣氏に宣戦布告したのである。

この事件は、豊臣家攻撃の口実とするために家康が崇伝らと画策して問題化させたものであるとの考え方が一般的である。しかし、清韓自身は家康の諱を「かくし題」とした意識的な撰文である(「国家安康と申し候は、御名乗りの字をかくし題にいれ、縁語をとりて申す也」)と弁明しており、五山の僧の答申はいずれも諱を避けなかったことについて問題視している

その後も鐘は鋳潰されることもなく方広寺境内に残されている(重要文化財)。

 

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