ネットの労作から。…奈良と廃仏毀釈。

http://tokyo.cool.ne.jp/nara_hakken/bunkazaijisya/haibutukisyaku.htm  で教えて頂いた事です。

廃仏毀釈は、まだ明治になっていない1868慶応4年政府成立すぐに神仏分離令が出されました。このとき全ての寺は寺領を取り上げられ存亡の縁に立たされました.こういうことをやったのは維新の指導者ですよね。司馬遼太郎氏の意見では、この時復興なった神祗官に採用された平田派神道の影響も大きかったと言われています。
 

ただし奈良の寺で被害が大きかったのは興福寺がまず浮かぶでしょうが、これは高位の僧職が公家出身の子弟の指定席しかも「遊興の徒」(この時反省文として出された中に自ら記述しています)のようになっていてほとんど抵抗せず一斉に職務を辞め支配関係にそれまであった春日大社の神官に転職したことから、一気に廃寺と化して被害がひどくなったのです。多くの仏像や器財、経書が焼かれ五重塔は売りに出されました。
 

それよりは大神神社の神宮寺として隆盛を誇っていた現在の桜井市にあった内山永久寺の方が被害がひどくて、興福寺並の寺域と伽藍を誇っていた大寺が今や小さな池以外何も残っていないという凄まじい被害にあっています。でもあまりに被害が大きく消滅したため名前もしれないようになっていて忘れ去られています。
 

他に十津川村では全ての寺と仏像や仏典器財などあらゆるものが打ち壊され谷に投げ込まれました。それで今も十津川村は一つの寺もないままです。
 東大寺では寺領を失ったため大仏殿が修理できず雨漏りだらけのままとなりました。この過程はここを見て下さい。
 

廃仏毀釈の後奈良は逼塞して大正時代まで50年ほど寂れきっていました。観光地として見直され、それから復興が始まるのですが消極的など大きな傷となって残っています。

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