菅の“大連立延命”に怒る「震災病院」の患者90人…サンデー毎日から。

病院はゴーストタウンと化した瓦磯の町外れに建っていた。宮城県石巻市の南東部にある伊原津地区-。周辺は住宅地で家屋は根こそぎ損傷を受けていた。今も遺体が埋まっているのか、ツーンとした腐臭が漂う。
 
「周りが瓦傑だらけだったので、ここには誰もいないと思われていたようです。早急に転院が必要な90人の患者が今も取り残されているのです」
 
3月25日、粉雪が舞う寒空の中、記者にそう訴えるのは「伊原津病院」(旧恵愛病院)の木村勤院長(61)だ。消防署員が初めて病院の様子を見に来だのは3・11から3日後のことだった。その後、自衛隊員がやって来た。
 
「その時、病院が”救援リスト”に入っていなかったことが分かりました」(木村院長)
 
病院は精神科で120床の病床を持ち、統合失調症などの精神疾患者や認知症など寝たきり高齢者が入院している。
 
「周囲は皆、避難場所の近くの幼稚園に避難していると思っていたそうです。車イスや寝たきりの高齢者を抱え、とても移動できる状況ではありません。自衛隊員が来てくれるまで完全に孤立状態でした」
 
…中略。

2階にいる職員たちは、急いでシーツをつないで命がけで屋根をつたい、患者を懸命にすくい上げた。しかし全員を助けることはできず、目の前で水の中に沈んでいく患者をどうすることもできなかった。
 
藤中看護部長も大量に水を飲んで、意識を失った。同僚は全身が冷たくなった看護部長を一晩中、抱き抱えていると、2日後、奇跡的に蘇生した。耳から黒いヘドロが出てきた。
 
しかし、避難はできても電気、水道、ガスのライフラインはすべて止まり、携帯電話などの通信もまったく通じない。薬品庫や食糧の備蓄はI階にあったため、ほぼ全滅。事務長らが浸水した1階に潜り、薬や食糧を見つけ出してなんとかしのいだ。

乾電池がないため貴重な懐中電灯を夜の暗闇の中、薬を飲むときだけに使った。食事は朝と夕方の1日2回、コップー杯の水とビスケットー枚。水が流れないため糞尿もたまる。不潔な環境にあるため、感染症が蔓延しかねない状況だった。
 
「ヘリコプターが飛んできたので、助けに来たと思ったら取材のヘリ。いくら手を振っても、天井に白い布でSOSと書いても救援には来てくれませんでした」(木村院長)
 
3日目に職員が避難所になっている町のスーパーマーケットまで行くと、消防署の隊員がいた。救助を訴えたら、「今日は無理だけど、後で行かせます」と言われ、ようやく病院に生存者がいることを公に知らせることができた。
 
「いま、いちばん必要なのは明かりです。夜になるとトイレに行くにも真っ暗。患者たちは外界からの刺激に対する反応が鈍り、錯覚や妄想、マヒなどを起こす譫妄(せんもう)と呼ばれる意識障害になって症状は悪くなる一方です」(藤中看護部長)
 
患者たちがそうした症状を示し始めたのは、震災の2日後からだ。回復の兆しはない
 
「せめて単一乾電池がたくさんあれば、廊下に明かりを置くことができて患者の精神が少しは安定すると思います。水で洗うこともできないので衣類や下着類は、いくらあっても助かります。このままでは病院機能が果たせません」(同) 90人の患者をどこにどう運べばいいのか。搬送車両もガソリンもない。取材中、記者は妙案を考えることができなかった。石巻市内ては同病院のように救援リストから漏れ、物資は行き届いていない地区がそこかしこにある。
 
木村院長は行政や国の対応にこう直る。
 
「私たちが必要としている石巻の情報は全然入つてきませんでした。救援を待ち続ける中、菅直人首相が谷垣禎一自民党総裁に震災担当相として入閣要請したとラジオで聴きました。(被災者より)自らの延命のための行動に本当に腹が立った」 自力で避難できない。“災害弱者”は置き去りにされたままだ。
 
ジャーナリスト・池上正樹

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