「チボの狂宴」 マリオ・バルガス=リョサ〈著〉4月10日 朝日新聞読書欄から。
評者:奥泉 光 作家・近畿大学教授
物語に関わる表現のジャンルはさまざまあるけれど、なかで小説が持つ一番の強みは 「かたり」の自在性にあるだろう。
小説的「かたり」は目には見えぬ他人の内面に自由に入り込んでいくと同時に、複数の時間を思いのままに行き来できるところに特徴がある。
2000年に書かれたバルガス=リョサの長編を読んで、そうだ、小説とはこういうふうに書かれるべきなのだ!との思いに捉えられたのは、本作が小説の強みを最高度に活かした作品であるからで、逆にいま世間に流通する小説の大半が、小説という方法の力に無自覚だからだろう。
20世紀なかば、30年にわたってドミニカ共和国を独裁支配したトゥルヒーリョの暗殺事件を中核に据えた一編は、独裁者トゥルヒーリョをはじめ、彼の家族、政権下の取り巻きたち、暗殺者たちを自在な時間処理とともに多視点で描くことで、時代の全体像を立体的に浮かび上がらせる。
「かたり」の自在性で時代描く長編
とりわけ、子供時代に父親と独裁者から傷つけられ、故郷を捨てた30年を経て帰還した上院議長の娘なる人物の、主人公格での設定が小説に深い奥行きを与えている。ウラニアと名付けられたこの女性は虚構の存在であるが、虚構を積極的に導入することで、現実の歴史時代の像をいきいきと描き出すこともまた、小説の有力な方法の一つである。
独裁政権下での陰湿な謀略や酸鼻な拷問、悲惨な死に全編はあふれている一方、カリブ海の陽光の下にある土地のかぐわしい匂いや、明朗な活力を持った人々の印象が愛おしく読後に残るのは、ラテンアメリカ文学の特徴でもあるが、作者の人間への視線の豊かさゆえであるだろう。
評者は本書を東日本大震災をはさむ時間に読んだ。生半可なものならば「現実の力」の前に容易に瓦解してしまうのだろうが、誠実かつ丹念に構築された虚構の表現は強いものだとあらためて感じた。
これは小説に限った話ではないが。
*芥川の、「文明のターンテーブル」、は、マリオ・バルガス・リヨサに勝るとも劣らないものなのである。(呵々大笑)