鎌田 實さんと山下俊一教授が緊急対談…全国民必読の書、「週刊朝日」、今週号から。
かまた・みのる 1948年、東京都生まれ。諏訪中央病院名誉院長。 91年に日本チェルノブイリ連帯基金を設立し、ベラルーシに18年間で医師団を91回派遣し、約14億円の医薬品を支援してきた。著書に『がんばらない』『あきらめない』『なげださない』など。ホームページhttp://www.kamataminoru.com
やました・しゅんいち 1952年、長崎県生まれ。長崎大学大学院の医歯薬学総合研究科長。91年からチェルノブイリ原発事故後の国際医療協力を主導。 2005年から2年間、世界保健機関(WHO)ジュネーブ本部で放射線プログラム専門科学官を務めた。
鎌田 僕は放射能問題でわからないところがあると、山下先生に毎日のように電話で聞きました。たいへん心強いアドバイザーでした。
山下 いまは福島県のアドバイザーになりました。
鎌田 僕は山下先生を人間として信頼しています。山下先生は東京電力から研究費はもらっていませんよね。
山下 もらっていませんが、欲しいですね。(笑)
鎌田 こういう点が大事だと思うんです。山下先生は科学的に健康に大丈夫な範囲とか明確にしようと必死ですが、先日のNHKテレビで山下先生が出演したのを見て少しがっかりしました。大丈夫と繰り返されましたが、なぜ大丈夫なのか、時間をかけて説明していただきたかった。
山下 私は1991年にチェルノブイリに初めて入ってから20年間仕事をしてきました。チェルノブイリ周辺はもう100回以上行きました。見えないものへの恐怖心を払拭することがどんなに難しいか痛感しました。鎌田先生と最初に会ったのもチェルノブイリでした。
鎌田 はい。最初の1991年です
山下 チェルノブイリを歩いていてよく現地のおかあさんに「この子は大丈夫だろうか。結婚できますか」と質問されます。汚染地域に500万人近い人が住んでいますし、汚染食物も食べている。しかし、僕は答えを持たない。そんなときに「私は長崎から来ました。被爆2世です」と言うと、会場の暗い雰囲気が変わる。広島・長崎は反核ということだけではなく、聞く相手に安心感を持たせます。現場を歩くことが私のモットーです。私はWHO(世界保健機関)にも2年間行って、放射線事故の国際対応もしました。
鎌田 正式にはジュネーブにどんな職名で行かれていたのですか。
山下 放射線プログラム専門科学官として世界の安全防護と緊急対応のシステムづくりをしました。2007年に長崎に戻りましたが、今回の福島原発の情報が入ってきたのは大震災翌日の3月12日。すべてマスコミからでした。
鎌田 専門家の山下先生のところに一報も入ってこないのですか。
山下 屋内退避から避難。最初は3キロから10キロ。これはマニュアルどおりだったと思います。そのあと20キロにした。安全なところに避難したのだから大丈夫なはずなんですね。ところが20キロから30キロ圏内が屋内退避になった。これを聞いて僕はおかしいなど思いました。長崎大学のスタッフには14日に福島に入ってもらっていました。福島のスタッフからは「福島市はいま雪が降っています。計測器が雪にガーガー音を立てています。放射性物質が降り注いでいる」と報告がありました。
鎌田 20キロから30キロの屋内退避の指示が出されたのは15日です。
山下 問題は医療関係者も行政も放射能や放射線の知識が乏しくパニックになったこと。僕は要請がなければ現地支援に入れない。福島県立医科大学の理事長が僕に電話してきたので、18日の朝一番で飛びました。入ってびっくりしたのは、みんな浮足立っている。これだけ原発があるのに事故があると想定していない。専門家もいない。全くの安全神話の中にいたのです。それで原子力災害の現地対策本部であるオフサイトセンターのある県庁にも行きました。保安院や経産省、厚労省、自衛隊など人数がたくさんいて、はじめは調整がうまくついてない。原子力災害の場合、中央官庁と直結です。県はわからんからぜんぶ聞く。中央では諮問委員会に質問を出す。答えはなかなか返ってこない。現場は困ってるのに、情報が途中でマスコミに先に出ちゃって、現場に対する説明がない。これはまずかった。佐藤(雄平)知事も非常に懸念されて私をアドバイザーにして、20日から、いわき市、福島市、郡山、田村、いろんな町をまわりました。
鎌田 そのまわってる間にも僕は何度も電話しましたが。(笑)
山下 チェルノブイリのときもそうですが、現場を歩かないとわからない。鎌田先生から電話があったときはうれしかった。鎌田先生には南相馬にぜひ入ってほしかった。チェルノブイリと同じで、汚染と聞いただけで医師も入りたがらない。とくに屋内退避の20キロから30キロゾーンには誰も行きたがらないし、物も運ばれない。まさに最初のI、2週間は現地への支援は空白でした。
鎌田 ある病院では、院長が、ぜひ残ってほしいが、自主判断でいいと言ったら、半分ぐらいのスタッフがいなくなった。医療用酸素がないとか、医薬品がない、残った医者はもうへとへとだというのを聞いて、諏訪中央病院の院長にお願いして医師や看護師と南相馬に入りました。いままた諏訪中央病院のチームが南相馬に3日間入っています。
…続く。