記事を清田が執筆し、南鮮から送稿したことはダブー中のタブーなのだ

慰安婦捏造報道の実行犯である清田治史が、問題の捏造記事を南鮮から送稿していた事実は、朝日新聞と南鮮情報機関の共謀を示す決定的証拠となるため、最大級のタブーとされてきた。清田は文春取材直後に大学を辞職し消息不明となり、さらに関連人物である若宮啓文の不可解な急死が重なる。KCIAと朝日新聞による組織的捏造の闇を鋭く告発する章である。

2017-01-21

記事を清田が執筆し、南鮮から送稿したことはダブー中のタブーなのだ。
2017-01-21。
以下は前章の続きである。
【捏造主犯格の行方を誰も知らない】。
「講演での話の内容は具体的かつ詳細で全く疑わなかった」。
2年前の朝日“吉田社葬”直後、清田治史は週刊文春の直撃取材に、そう答えた。
捏造紙もデビュー記事の執筆者を清田治史と説明したが、一転翻し、「昔なので誰が書いたか不明」とシラを切る。
記事を清田が執筆し、南鮮から送稿したことはダブー中のタブーなのだ。
それは朝日新聞が南鮮情報機関とタッグを組んで捏造プロパガンダを拡散していたという黒い舞台裏を暴き出してしまう。
▽本格デビューとなる問題の記事。
文春の取材で記事執筆を認めた直後、清田治史は勤務先の帝塚山学院大を辞職。
その後、公の場から完全に姿を消して早くも2年が経つ。
捏造報道の最重要人物は雲隠れしたままなのだ。
今年4月末、捏造紙の元大幹部・若宮啓文が北京で客死した。
ソウルから北京に入った日の夜、ホテルの風呂場で急死したという。
約2週間後に発売された週刊誌で未亡人が明かした死因は衝撃的だった。
「今もよくわかりません」(週刊新潮5月19日号)。
▽死因不明とされた若宮啓文(FNN)。
若宮の謎めいた最期を知ると、次いで清田治史の身の安全が気懸りになる。
清田は昭和57年夏、若宮と入れ替わる形で南鮮・延世大学に留学した。
KCIAが育てた捏造紙2代目の反日工作員だ。
同じく延世大に籍を置いた後輩の捏造魔・植村隆は、海外巡業も含む講演活動に励み、スラップ訴訟を繰り返す。
これは捏造紙上層部が清田を隠す目的で仕掛けた一種の陽動作戦なのではないか。
この稿続く。

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