朝日的人間はどこで生まれるのか ― 母校とライバル高が分けた決定的な分岐点
検索によって判明した「仙台一高」出身という事実を手がかりに、朝日新聞的な思考がどのような教育環境で形成されるのかを検証する。母校・仙台二高に息づく「新聞雑誌は読むべからず」の精神と、現実を見抜く教育の力を対比し、進学先が人格形成に与える決定的影響を論じる。
この人物の名前を確認しようとして検索して驚いた。
何と、我が母校のライバル高である仙台一高出身者ではないか。
2016-01-20
以下は前章の続きである。
この人物の名前を確認しようとして検索して驚いた。
何と、我が母校のライバル高である仙台一高出身者ではないか。
ライバル高に関しては、先般言及した井上ひさしの幼稚さといい、朝日新聞そのもののような人間が、連続して出てくるのは、単なる偶然ではないのではないかと思えてならない。
そういう類の連中が、教師としてたむろしていたのだろうな、と思う。
一方、我が母校について言えば、私が時折思い出すH教諭の様に、我が母校に相応しい図書館が発行していた冊子LIBRARIAに掲載された、正に伊達藩の武士の伝統を引いたような論文だった、「新聞、雑誌の類は読むべからず」を覚えている同級生と先輩は多いはずである。
それゆえにまた、私が我が母校をこよなく愛し、誇りに思っていることも言うまでもない。
宮城県の各中学校の1、2番にいる者たちの親御さんたちは、自分の子供たちを朝日新聞的な人間にしたくなかったならば、我が母校に進学させるのがbetterだろう。
教育の力を侮ってはいけないのである。
私が言うのだから間違いはないのだが、我が母校である仙台二高には、「新聞、雑誌の類は読むべからず」の伝統はあっても、朝日新聞的な人間の伝統は全くないからだ。
在校時分の親友の一人で、大器晩成の典型だった人間は、全校で一番の成績優秀者となった。
後年、彼が大学を卒業し社会人となっていた頃、仙台弁で「朝日は読まねぇ、根拠のない高みから物を言っているからだ…」と言っていたほどである。
この稿続く。