国家のトップである総理大臣が決定を下しても、神経が切断され骨格が崩れているために行政組織が動かないのである。地方に至るまで動かない。
共産主義の乗っ取りのために
それにしても中国に対してわが国は、官邸も外務省も公明党同様、動きが鈍い。なぜだろうか。
答えは第二次世界大戦で敗れ、その後今日までの76年間で、日本国と日本国民が大切なものを失ってきたからではないか。
大切なものとは、日本国の国柄である。穏やかながら雄々しく、公平で人道的な価値観である。
その起源は日本が中華文明と訣別して17条の憲法を打ち立てたときに遡る。
17条の憲法の精神は1300年近い年月を経て明治元年の5箇条の御誓文につながっているのだが、21世紀の世界にも立派に通用する素晴らしい内容である。
国民を信じ、国民一人一人を大切にし、和を尊び、公正であることを以てわが国の土台となしている。
長い歴史を通じて、日本が大国としての力を持っているときもそうでないときも、「日本らしい」と言われるこの価値観を先入たちは大事にしてきた。
だからこそ、先述したように国際連盟規約に人種差別撤廃条項を入れよという提案ができたのだ。
自らの目指すところを信じて問題提起する。そのような気概と価値観を日本人は敗戦後の76年間で失ってしまったのではないか。
なぜ大事なことを日本国は置き去りにしてしまったのか。理由は明らかだ。
戦後、日本を統治した連合国軍総司令部(GHQ)によってわが目の骨組みが壊されてしまったからだ。
現行憲法を読めば、GHQが目論んだ日本国の形が鮮明に浮き上がってくる。
乱暴な言い方になるのを承知で言えば、現行憲法が送っているメッセージは、日本国政府は何もできない「でくの坊」であれということだ。
憲法前文は「平和を愛する諸国民の公正と信義に信頼して、われらの安全と生存を保持しようと決意した」と日本と国際社会の関係を規定している。
日本国政府はその国際社会を信頼して国民の命も国家の命運も全面的に彼らに預けることになっている。そんなものは虚構にすぎない。
だが、現行憲法はその虚構を至高のものとし、国民と国家の運命を全面的に託すと決めたのだ。
日本国民の命は日本国政府が守るのではないのだ。
ジョージ・ケナンが来日したのは昭和23(1948)年だった。彼はアメリカの対ソ戦略を打ち立てた人物だ。
米国はケナンの戦略を忠実に取り入れ、一発の銃弾も撃たずして旧ソ連を崩壊に導いた。
この大戦略家が来日してマッカーサーの占領行政をつぶさに視察して言い残している。
「一見して共産主義の乗っ取りのために日本社会を弱体化するという特別の目的で凖備されたとしか思えない」
マッカーサーの下ではジョージ・ケナンの指摘した反日極左の政策が次々に実施されていた。数千年の歴史を持つ神道が排除された。
日本社会の基盤を構成する家制度は崩壊の道を辿るよう、憲法及びそこから生まれる民法によって運命づけられた。
憲法学者も労働組合も教師も左陣営の人材が優遇された。
コミンテルンの日本支部として設立された日本共産党もGHQの後ろ盾を得て跋扈した。
二流三流の左翼の人材が社会の各分野で重要な地位を占めた。
学問、教育の世界も東京帝国大学憲法講座教授、宮沢悛義氏のように戦前、戦中の日本を否定する学者が主流となった。
徹底的に依存する国
こうした知的風土の中で日本本来の価値観を正当に評価したり主張したりすることがなくなっていった。
ジョージ・ケナンの懸念する左傾化現象は年月が経つにつれてより深く日本社会に根づいていった。
日本は自国の歴史に対しても、長年日本を支えてきた価値観についても自信を失い、王張すること、提言することもできなくなった。
国防さえ国際社会に全面的に任せよと憲法で規定されているのである。
日本は政も官も民もひたすら経済発展の道をひた走ることに没頭した。
隣国の人権侵害などに注意を払うどころではなくなっているのではないか。価値観を喪失してしまったのではないか。
それが、中国に物を言えない日本国政府の現状につながっているのではないか。
官房長官は「規定がない」と言ったが規定どころかジェノサイドは許さないという発想を日本はしなくなった。
力の強い中国に立ち向かって譲れないことは譲れないと堂々と言うことなど、考えなくなったのだ。
日本は一体どうなっているのか。国として大丈夫かと思わざるを得ない。
ジェノサイドを批判する規定も法律もないのと同じく、およそ全ての分野で日本国には政治の意思を執行するための法律が整備されていない。
武漢ウイルスの蔓延を前に、令和2(2020)年、安倍政権が緊急事態宣言を発出した。
日本以外の国々では緊急事態宣言は国民に行動制限を課し、違反者には罰則を科す。
他方日本政府にはそのような権限は一切与えられておらず、政府はひたすら国民にお願いをするだけだ。
日本国政府の意志を行政府が実施するのに必要な法的基盤は、多くの場合、ないのである。
国民と国家は支え合ってはじめて双方がよい形で存続できる。
だからこそ、どの国でも国民に責任と義務を求め、それに反する場合には罰するのである。しかし、日本にはそれがない。
憲法前文が明記したように、日本政府には国民の生存、即ち命を守ることについての責任は負わされていない。
如何なる国にとっても最重要の政府の責任は国民の命と国土を守ることだ。
その最重要の国家の責務が憲法前文では、日本国政府に負わされていないことを再び強調したい。
責任のないところには当然、権力も与えられない。
事実上、政府に国民の安全と命を守る責務が認められておらず、国民には国のため、公のため、社会のために責任と義務を果たすことが求められていないとは何を意味するのか。
日本は国家ではなくなっているということではないか。
国民も政府もバラバラなのである。
占領政策で日本の価値観を消し去り、結果平等の社会主義社会に向かって進ませるよう多くの仕掛けが設置された。
それを日本人はただのひとつも改正できずに今日に至る。ジョージ・ケナンの言葉が今更ながら蘇る。
自由闊達な精神で自ら責任を負い、大いなる希望を実現するために切磋琢磨する国であったのが、国際社会もしくは同盟国に徹底的に依存する国に成り果てたまま現在に至っている。
再度強調する。だからこそ、中国のウイグル人ジェノサイドにも物が言えないのだ。
中国に支配されているかのような勢力は公明党だけではないだろう。自民党の中にも。少なからぬ同類勢力がいると考えた方がよい。 言論テレビを主宰して通常のメディアでは発信されない情報を多くの人と共有し、自らも考えていくうちに、わが国が国家としての骨格を欠いていることをより深く実感するに至った。
国家としての骨格がないことに加えて、神経細胞もズタズタに切り裂かれていると感ずる。
国家のトップである総理大臣が決定を下しても、神経が切断され骨格が崩れているために行政組織が動かないのである。地方に至るまで動かない。
それでも国家の指導者が国家意識を持ち、戦略を考えている場合はまだ救いがある。
それがなくなったとき、日本国は気の良い優しい人々の集合体となる。誠実な優しい人々であり、むやみやたらに暴力的になることはないだろう。
しかしそのような日本は他国から見ればよいカモである。リーダーもなく戦略も持たない優しい人々の一群は取り扱いが容易である。
中国の日本を見る目はまさにそうではないか。
あらゆる面で国際社会が最も脅威を抱き、中国と対峙する構えを作ろうとしているときに、先進国の中で日本だけが虚構の平和の道、異端の道を歩く。
なんということか。
果たして日本は日本として生き残っていけるのか、危惧している。だからこそ毎週言論テレビで警告を発し続けてきた。
その集積の一部を今回はこのような本にしてみた。多くの人がこの私の思いを共有してくださればこれ以上の嬉しいことはない。
令和3年4月
櫻井よしこ