アグネス・スメドレー…ソ連崩壊後にコミンテルンの工作員であったことが判明。

尾崎秀実の上海時代からゾルゲ諜報団への参加に至る過程を詳細に追い、アグネス・スメドレーという国際的工作員の存在を軸に、朝日新聞・国際左翼ネットワーク・コミンテルンが交錯する諜報史の実像を明らかにする。


アグネス・スメドレー…ソ連崩壊後にコミンテルンの工作員であったことが判明。 2017-03-21
以下は前章の続きである。
上海へ

1927年10月から翌年まで大阪朝日新聞の支那部に籍を置く。
この大阪赴任中、一高の先輩で日本共産党員の冬野猛夫に会い、影響を受ける。
上海に渡る直前に、一高、東京帝大で同期でドイツ帰りの羽仁五郎から現地の新聞の研究・分析の重要性について教わる。
その後、特派員として1927年11月に大阪朝日新聞社上海支局に転勤し、英語とドイツ語に堪能な尾崎は、太田宇之助支局長のもと外交方面を受け持つことになる。

上海滞在中、内山書店に通い、店主の内山完造や、そこに出入りする郭沫若や魯迅、中国左翼作家連盟の夏衍と交際する。
また中国共産党とも交流した。
昭和3年11月、イレーネ・ワイテマイヤーが経営するツァイトガイスト(ドイツ語で「時代精神」の意)書店でアグネス・スメドレーに会い、コミンテルン本部機関に加わり諜報活動に間接的に協力するようになる。
さらに、常盤亭という日本料理店において、スメドレーの紹介で、フランクフルター・ツァイトング紙の特派員「ジョンソン」ことリヒャルト・ゾルゲと出会う。
彼を通じてモスクワへ渡った南京政府の動向についてのレポートが高く評価され、南京路にある中華料理店の杏花楼で、ゾルゲから自分はコミンテルンの一員であると告げられ、協力を求められ、承諾する。
実際に尾崎をゾルゲに紹介したのはアメリカ共産党員で当時上海にあった太平洋労働組合書記局(PPTUS)に派遣され、満鉄傘下の国際運輸という運送会社に潜り込んでいた鬼頭銀一である。

昭和6年春に、「日支闘争同盟」の会合に出席した際、満鉄調査部の上海満鉄公処の小松重雄の紹介で、川合貞吉と出会う。
関東軍の動向を探るため、同年6月に川合を満州に派遣する。

諜報活動
1932年2月末に大阪本社から帰国命令を受けて日本に戻り、外報部に勤務。
同年5月末に「南龍一」こと宮城与徳が本社に訪ねてきて、彼を介して奈良において6月初旬にゾルゲと再会、
彼から諜報活動に従事するよう要請されて、全面的な支援を約束、ゾルゲ諜報団の一員として本格的に活動するようになる。
暗号名は「オットー」である。
また、鬼頭銀一と神戸や大阪でたびたび会っていた。

1934年10月、東京朝日新聞社に新設された東亜問題調査会勤務となり東京朝日新聞に転じる。
1936年、カリフォルニアのヨセミテで開催された太平洋問題調査会に中国問題の専門家として参加、西園寺公一と出会い親友となる。
このとき西園寺公一の通訳であった牛場友彦とも面識を得る。
この会議のパーティーで、オランダ領東インド代表のオランダ人から、アムステルダム・ハンデルス・フラット紙の記者のゾルゲを紹介されて、初めて本名を知ったという。
翌1937年4月から近衛文麿側近の後藤隆之助が主宰する政策研究団体である昭和研究会に佐々弘雄の紹介で参加。
7月、東京朝日を退社し、総理大臣秘書官の牛場友彦の斡旋で第1次近衛内閣の内閣嘱託となる。
同時に、近衛主催の政治勉強会「朝食会」に参加、この関係は、第2次近衛内閣、第3次近衛内閣まで続いた。
1939年6月1日、満鉄調査部嘱託職員として東京支社に勤務。
ゾルゲ事件で逮捕されるまで、同社に勤務する。

*アグネス・スメドレー(Agnes Smedley, 1892年2月23日 – 1950年5月6日)はアメリカ合衆国のジャーナリスト。
中国大陸の近代事情、特に中国共産党に関する著作で知られる。
第一次世界大戦においてはインドの英国からの独立のためドイツ政府からの経済援助を受けながら合衆国内で活動し、世界革命論を促進するコミンテルンのために共に長期間活動している。
ソ連崩壊後にコミンテルンの工作員であったことが判明。
(ウィキペディアから)

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