誇りと喪失――渡部昇一氏の訃報に接して。
京都御所での体験と自身の論説への共鳴、そして渡部昇一氏の訃報に触れた衝撃を通じて、日本の文化・知性・誇りについて静かに回想する一篇。
2017-04-18
彼が私の故郷の隣県である山形県出身である事も、私には誇らしい事だった。
私が大病を患い入院中だった2011年、私の論説を読んでくれていた京都御所の職員が、私がリフレッシュ退院を利用して参観を予約し訪問した時、参観者を先導する説明役を務めていた。
その数日前に、私は京都の庭園の美しさは、日本各地の山脈の美しさ、湖の美しさ、森の美しさ、川の美しさ、海の美しさを表現しているからであると書いた。
つまり京都の庭園とは、日本の美のエッセンスであり、日本人が有史以来育んで来た文化と教養のエッセンスであることを書いた。
職員さんは、明らかに私に告げるように、私の論説通りの事を話した。
何回目かの参観だったから、私はすぐに気が付いたのである。
さて、今日、とても悲しい事があった。
今朝、予定よりもずいぶん早くに一度目が覚めた。
起き出して新聞を読んだ。
朝日を最初に読んだのは久しぶりだったが、社会面近くに在った記事で本当に呆れた。
というよりも、この会社は慰安婦報道を捏造して世界に広めた罪を、いまだに全く認識していない。
早々に切り上げ、日経新聞を読みだした。
殆ど全部を読んで社会面の方に来たら、まだまだ生きていて欲しかった人の訃報が掲載されていた。
渡部昇一氏が死んだのである。
天皇陛下の退位を審議する際に学識者として呼ばれていた映像を見た時に、体調が芳しくなさそうだったことが気にかかっていた。
彼が私の故郷の隣県である山形県出身である事も、私には誇らしい事だった。
この稿続く。