中国共産党を育てた日本――留学生が生んだ歴史的皮肉。
なぜなら中国共産党をここまでにした責任の一端は、日本にあるからだ。
なぜ中国共産党は日本で育ったのか
— 留学生と左傾化が生んだ歴史的責任 —
日清戦争後、日本に大量に留学した中国人学生たちが、日本の大学で社会主義思想を学び、それが中国共産党成立の母体となった歴史的経緯を検証する。
善意による留学生支援、日本の大学の左傾化、コミンテルンの工作、国共合作の影響が複合的に絡み合い、中国共産党と日本共産党が形成されていった過程を具体的に明らかにする論考である。
2017-04-19
なぜなら中国共産党をここまでにした責任の一端は、日本にあるからだ。
以下は前章の続きである。
留学生が中国共産党を作った
この「日米中三力国関係史」の見直しの前提として、どうして中国共産党はこれほどの力をもってしまったのか、そこから見直すべきだろう。
なぜなら中国共産党をここまでにした責任の一端は、日本にあるからだ。
実は中国共産党を育てたのは、日本であった。
1895年、日清戦争が終結し、日本が勝利した。
日本に負けたことにショックを受けた清王朝は、近代産業国家にするべく大量の留学生を日本に送り込んだ。
1903年の日露戦争頃までは毎年約千人の中国人留学生か来日し、その後は毎年約八千人にまで増えた。
1912年に清王朝が滅亡し、翌1913年に中華民国ができると、再び毎年約五千人の留学生か日本にやってきた。
親切な日本人たちは、「中国の民主化を応援しなければならない」と、留学生らが日本語を勉強するための塰校や寮を作って、彼らを懸命に支援した。
当時は欧米による植民地化の時代であり、日本の周りは敵だらけだった。
日本はアジアの中に味方を作るため、中国や韓国などを一所懸命孝援し、同じアジア人同士、手を取りあって欧米列強に立ち向かおうとしたのだ。
不幸だったことは、第一次世界大戦が終わった1914年当時から日本の大学では、社会主義が持て囃されていたことだ。
1915年、日本でマルクス主義を学んだ中国人留学生の陳独秀は「新文化運動」を提唱。
彼は後に中国共産党の幹部になるが、雑誌『新青年』において、伝統的な文化や社会体制が中国の近代化を妨げる元凶であるとして徹底的に否定。
中国を滅亡させないためには、もはや現代社会にそぐわない儒教や家族制度を廃絶して、「民主」や「科学」といった西洋文明の原理を全面的に取り入れるべきだと主張したのだ。
このように日本で最新の文化、社会科学を勉強した中国人留学生の多くは、日本で社会主義を学んだ。
そしてそのメンバーが中国に帰って社会主義運動を始めた。
これが中国共産党の母体となる。
中華人民共和国という名称の「人民」も「共和」も日本語だと言われるが、これも中国人が日本で社会科学を学んだためだ。
日本共産党が中共の影響下に
一方、ソ連で1917年にロシア革命が起こった後、1919年、レーニンによってコミンテルンが創設される。
1920年、コミンテルンは東方諸民族会議を開催、中国や日本、トルコなど中央アジアの人たちを集め、「欧米列強の植民地支配に苦しむ皆さんの独立を応援します」と唆した。
会議はアゼルバイジャンの首都バターで開催されたのだが、この時の旅費もコミンテルンが支給している。
そして翌1921年、陳独秀らによって中国共産党が作られた。
こうした流れの中で、コミンテルンの張太雷が来日し、堺利彦らに対して、旅費を出すから翌年1月にモスクワで開催される極東民族大会へ出席するようにと要請した。
これに応え、堺らは民族大会に出席、その後に日本共産党を作った。
このように日本共産党は、コミンテルンの指示を受けた中国共産党の影響下で結成されたのだ。
戦前日本で作られた中共特別支部
1924年、中国国民党の指導者、孫文がソ連のアドバイスを受け入れ、第一次国共合作に踏み切る。
国共合作とは中国国民党の孫文が中国共産党と手を結んだことだ。
このことが日本に留学していた中国人留学生に大きな影響を及ぼした。
先にも述べた通り、当時、日本に中国人留学生か数千人ほど来ていた。
彼らの多くは、中国国民党政府からの支援で来日している官費留学生だった。
彼らは国共合作の結果、共産党の勉強会に参加していいと勘違いしてしまったのだ。
日本にいる中国共産党員たちもこの好機を見逃すはずもなく、中国人留学生に対して「これからは共産主義の時代だから共産党の勉強をしよう」と呼びかけた。
更に孫文を応援していた日本の華僑-神戸、横浜、長崎にいた金持ちの華僑-は、孫文が共産主義と手を結んだという事実を受け、共産党は仲間だと思いこみ、共産主義の活動に資金援助を始めてしまう。
こうした流れと日本の大学の左傾化の波が同時に押し寄せたことで、中国人留学生も一気に左傾化した。
因みにこの当時、「最も頭の良い学生は社会科学を研究し、次の連中が哲学宗教に没頭し、三番目のものは文学にはしり、最下位に属するものが反動学生になる」と言われていた。
当時の大学生はエリートであり、大学生の多くは中央官僚になって国の中枢を担った。
その大学生の多くが社会主義にかぶれていたのだ。