大阪城に感嘆したキプリングと、日本が切り開くべき「再びの日英同盟」

高山正之の週刊新潮コラムは、ラドヤード・キプリングの大阪城訪問から始まり、日本の技術吸収力と米英との関係史を鮮やかに描き出す。航空・自動車・原子力に至るまで、日本が学び、立ち上がってきた軌跡と、いま再び問われる日英同盟の意味を示す論考。

2017-04-22
以下は戦後の世界で唯一無二のジャーナリストである高山正之が週刊新潮に掲載している評判のコラムの3月9日号からである。
再びの日英同盟
ラドヤード・キプリングが大阪城を訪ねたのは明治22年4月。
「小雨の煙る一日だった」と『キプリングの日本発見』にある。
彼は大阪城の石垣の見せる曲線の素晴らしさに感嘆し、天守を含む城郭の美しさに圧倒される。
そして大阪の宿でこの人情に厚い、手先の器用な民の国の将来について「いずれ米国の下でボタンやホックをつくる工場となるだろう」と予測している。
実際、そのころビルマは英国に、ハワイ王国も米国に併呑される寸前にあった。
それが終われば次は開国させた実績を嵩にかけて米国が日本を取る、と彼は確信していた。
しかし日本は頑張った。
富国強兵に努め、支那に勝つ力をつけ、米国の植民地にされずにすんだ。
さらに日英同盟を結んでロシアと戦い、それを倒し、不動の地位を得た。
とはいえ、産業水準はまだ低かった。
日露戦争の戦艦はどの1隻も欧州からの輸入ものだった。
今度ユネスコに明治産業遺産として登録された八幡製鉄所も三菱造船所も端島炭坑も、やっと明治30年代に入ってから動き出した。
しかし日本人の持つ小器用さ、勤勉さは十分な売りものになった。
フォードやGMが日本でノックダウン方式の車の製造をやらせた。
その器用さが買われて部品の製造も発注してきた。
米航空機メーカーもそれに倣った。
請け負った精密部品の完成度は高かった。
エンジンメーカーのプラット&ホイットニーもエンジン組み立てを日本に下請けさせた。
米国の上の方は日本を仮想敵と見て戦略を練っていたが、メーカーは警戒心は薄かった。
「黄色い彼らに何ができる」
日本は最先端技術に接する下請けを素直に喜んだ。
そして構造から材質までしっかり学んでいった。
おかげでトヨタはフォード車に並ぶ3リッターエンジン車を市場に出してきた。
航空部門では「赤とんぼ」の名で知られる複葉93式練習機を生み出した。
それもこれも米国のおかげ。
ほんのお礼ですと3機の「赤とんぼ」を米国政府に寄贈している。
日本製だって。
ちゃんと飛ぶのか、みたいな感じで試乗したら、安定性も操縦性も極めてよかった。
ちょっと小癪だが、それをそっくり真似た練習機「PT17」を作った。
当然ベストセラーになった。
この時点で米国は日本の航空技量を真剣に調べればよかった。
つまり零戦を生み出す潜在能力を知っていればあんなみじめな緒戦の敗北はなかっただろうに。
因みに米国の挑発に乗った日本軍機が真珠湾を目指す途中で「米国製赤とんぼ」と雁行している。
22歳の女性飛行教官コーネリア・フォートが周囲を飛ぶ爆撃機の群れに驚き、急いで上空に退避し、爆撃機翼面に描かれた日の丸を見る。
彼女が最初の日本機の目撃者になったわけだ。
因みついでに93式練習機は終戦の年、250キロ爆弾を積んで特攻に飛び立ち、2000トン級駆逐艦キャラハンを沈めている。
戦後、米国は日本の学ぶ力に懲りた。
それで自動車も航空機も一切の研究開発を禁じた。
ノックダウンもさせなかった。
主権回復後もそれは変えなかった。
このとき日本は日英同盟を思い出した。
英国に頼みそれでヒルマンやオースチンのノックダウンが日産などで始まった。
おかげで日本の自動車産業は息を吹き返し、今は米国市場に入って、ほとんどそれを席巻している。
米国は原子力研究もすべて禁じた。
原子力発電の導入すら禁止した。
なぜなら日本は米国に対し2発の核の報復権を持っているからだ。
でもそれはあんたの出方次第だからと説得してもダメだった。
で、このときも英国に頼んで英国製原子炉を入れてもらった。
米国はしょうがない。
「もっといい軽水炉」を日本に出すことに応じた。
今、英国が苦境にある。
助けてもらってきたお礼に日英再同盟はどうか。

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