「贖罪」から捏造へ――左翼プロパガンダの起点

戦後日本において「贖罪」という概念がどのように形成され、そこから「強制連行」「従軍慰安婦」といった虚構が付け加えられていったのかを、古田博司氏の論考を手がかりに検証する。

2017-05-04
私は、もはや単なる偶然だとは考えられないのだが、3年前の8月以降に初めて知った筑波大学教授の古田博司氏。
彼が当代有数の韓国通(朝鮮半島通)である事は既述のとおり。
今日、発売された月刊誌正論(840円)の彼の連載コラム「近代以後」3段組み4ページには、私の論説の正しさを完璧に証明している論文があった。
日本国民全員と世界中の人たちが知るべき事実である。
前文省略。
ソウルの闇の底で。
その後、「考え心がつく」のだが、これまでとは異なり、それはその都度なんぞという甘いものではなく、限りなく底なしに暗かった。
だから1982、3年頃、朝日新聞特派員の清田治史と友人を介して出会った時、私はソウルの闇の底で人知れずあがいていたのだった。
ゆえに氏との記憶を取り出そうとすれば、悉く陰画である。
当時、青年の氏に何かあったのかは分からない。
ただ「自分の故郷の柴又では、朝日新聞は赤新聞と呼ばれています」とか、本当のことを吐息のように言うので、韓国の事実を日本に伝えたいのだと解し、彼を貧民窟や売春宿など、ソウルの夜の底へと連れ回してしまった。
「そんなところ、行っても良いのですか」と何度も繰り返しながら、彼は好奇心と抗っているように見えた。
当時の韓国は、日本では同情と贖罪の対象だった。
同情の方は日本時代を経た後に朝鮮戦争ですべてを破壊され、なおも低迷する韓国人に対する自然な感情だったが、贖罪の方は違う。
60年日米安保条約の批准発効を控えて、58年頃から左翼知識人が日本人の関心を東アジアの社会主義国に向けようと猛烈なプロパガンダを行ったのである。
当時の日本人は敗戦の戦禍からようやく立ち直ったばかりで、「贖罪」といわれても、自分の方がひどい目にあったのでピンと来なかった。
そこで左翼たちは、はじめは「認罪」という言葉を使っていた。
この言葉は、60年6月号の『世界』に初登場する。
左翼プロパガンダの時代。
ここから「贖罪」に次々と尾ひれがつき、「強制連行」や「従軍慰安婦」などのウソが付け加わって行くのである。
この過程は、『新しい神の国』(ちくま新書、2007年)で既に述べたので、興味のある方はそちらを見てほしい。
この拙書は、熊沢敏之社長下の筑摩書房で断裁されてしまったが、今では中古で一円で買える。
この稿続く。

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