最後に、夢窓疎石について、ウィキペディアでおさらいしておこう。

2017-05-13
2012-01-30
最後に、夢窓疎石について、ウィキペディアでおさらいしておこう。
夢窓疎石(むそうそせき、道号は夢窓、法諱は疎石、建治元年〈1275年〉生、観応2年/正平6年9月30日〈1351年10月20日〉没)は、鎌倉時代末から南北朝時代、室町時代初期にかけて活躍した臨済宗の禅僧である。
七朝帝師として知られ、父は佐々木朝綱、母は平政村(北条政村か)の娘と伝えられる。

伊勢国、現在の三重県に生まれる。
幼少時に出家し、母方一族の争い(霜月騒動か)により甲斐国へ移住する。
1283年、市川の天台宗寺院・平塩寺に入門し、空阿に師事して真言宗・天台宗などを学ぶ。
1292年、奈良東大寺で受戒する。
京都では建仁寺の無隠円範に禅を学ぶ。
その後鎌倉に赴き、円覚寺の桃渓徳悟に参じ、1299年には建長寺の一山一寧のもとで首座を務めるが嗣法には至らなかった。
1303年、鎌倉万寿寺の高峰顕日に学び、1305年、浄智寺で印可を受ける。

応長元年(1311年)、甲斐国牧丘の龍山庵(浄居寺)に一時隠棲する。
その後西遊し、美濃国に虎渓山永保寺を開く。
元徳2年(1330年)、甲斐守護・二階堂貞藤に招かれ、牧庄内に恵林寺を創建し、蘭渓道隆以来となる甲斐の禅の教化に尽力した。
また、土佐国吸江庵、上総国退耕庵、相模国など、各地の寺庵を遍歴している。

1325年、後醍醐天皇の要請により上洛し、勅願禅寺である南禅寺の住持となる。
翌1326年、北条高時に招かれて伊勢国に善応寺を開き、その後鎌倉に赴き円覚寺に滞在する。
高時および北条貞顕から深い帰依を受けた。

1330年、甲斐に恵林寺を再興する。
1333年、鎌倉幕府が滅亡し建武の新政が始まると、再び後醍醐天皇に招かれて上洛し、南禅寺に再住する。
この時、臨川寺および西芳寺の開山にも迎えられ、国師号を授けられた。

やがて足利尊氏・足利直義兄弟が北朝を擁立し、京都室町に武家政権を樹立する。
夢窓疎石は足利家とも縁が深く、観応の擾乱においては調停役を務め、北朝方の公家・武士の帰依を集めた。
尊氏は疎石の勧めにより、後醍醐天皇らの菩提を弔うため全国に安国寺を建立し、利生塔を設置した。

また、京都嵯峨野に天龍寺を建立し、疎石はその開山となる。
その造営資金調達のため、1342年に天龍寺船の派遣を献策し、尊氏は莫大な資金を得た。

夢窓疎石は生涯にわたり、夢窓国師、正覚国師、心宗国師、普済国師、玄猷国師、仏統国師、大円国師と七度にわたり国師号を賜り、七朝帝師と称された。
1351年に没し、享年76。

夢窓疎石はまた、日本庭園史においても極めて重要な存在である。
西芳寺庭園、天龍寺庭園、永保寺庭園、瑞泉寺庭園、恵林寺庭園、覚林房庭園など、多くの名園を設計した。

著作としては『夢中問答集』をはじめ、多くの語録・法語が残されている。
小泉八雲の『怪談』「食人鬼」では、餓鬼道に落ちた僧を救済する高僧として描かれている。
門下には春屋妙葩、絶海中津、義堂周信、無極志玄らがいる。
また、武満徹は夢窓疎石の印象を基に「夢窓」と題する管弦楽作品を作曲している。

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