戦後の左翼が生まれた土壌 ― 占領と公職追放が生んだ逆転構造
戦時中の旧制中学教育は必ずしも軍国一色ではなく、英語教育も続いていた。だが敗戦と占領、公職追放令によって社会構造は一変し、戦前には無名だった人々が権力を得る。戦後を「良かった時代」と語る左翼や追放組の心理的背景を、自身の体験から描く。
2017-06-14
以下は前章の続きである。
戦後の左翼
戦争中、旧制中学では、そこから将校に育てたりもするので、軍事教練などもありました。
しかし、軍国主義一色かというと、そうでもなかった。
私か中学に入った頃、昭和十八年は、戦場がずっと移ってソロモン諸島辺りになっていました。
その頃でも使っていたのは、「キングズ・クラウン・リーダー」という英語の教科書で、表紙にはイギリスの王冠が印刷されていた。
イギリスは日本の敵国ですよ。
シンガポールは昭南島と名前を変えられた時代ですよ。
中には、「トムのお父さんはバンカーです。七時に起きてコーヒーとパンを食べます。九時に銀行に行きます」などということが書かれていました。
戦争の真っ最中にもかかわらず、英語の時間には先生が入ってくると級長が「スタンド・アップ」と言っていた。
そこでみんなが立つと「バウ」と言う。
みんなが礼をすると「スィット・ダウン」と言う。
それでみんな着席する。
そこから授業が始まります。
軍国的になった英語の教科書が出てきたのは、昭和十九年です。
私の感覚では「戦争になった」というのはサイパンが陥ちてからです。
それまでは、「どこかで戦争をしている」「いつも日本が勝っているはずだ」という感じでした。
そして昭和二十年になると、東京空襲が始まります。
ですから、「戦争はひどかった」というのは最後の一年間の記憶です。
あの最後の一年間の記憶がなければ、戦争といっても暢気なものだったと思います。
しかし、あの一年間の記憶が非常に強烈ですから、戦前は悪かった、暗かったということになるのでしょう。
それからなんといっても衝撃的だったのは、占領されたことです。
日本が始まって二千年以上の歴史の中で、はじめて外国に占領されたのですから、しようがないと言えばしようがない。
国民は戦争がなくなってほっとしました。
そして、東京裁判が始まりました。
同時に、公職追放令も出ました。
公職追放令というのは東京裁判とは別に、直接に国民を震え上がらせたのです。
軍隊の学校にいたとか、少しでも偉かった人は、公職追放令に引っ掛かる。
わかりやすい例で言うと、戦後の日銀総裁で銀行の天皇と言われた人がいます。
一万田尚登氏です。
この方は、戦争が終わった時に、大阪支店長か何かをしていて、日銀の理事に成り立てで末端にいました。
公職追放令には、重要な機関の上の人は皆、戦争に関係したということで引っ掛かった。
ですから、日銀では理事の末端にいた一万田さんを除いて、総裁以下全理事が公職追放令で追われました。
そうして、今までなんということもなかった人たちが、ぱーっと偉くなるわけです。
日本中に「三等重役」が生まれました。
だから戦後、公職追放令のおかげで偉くなった人たちは、戦前の日本をよかったとは言いません。
戦後がいいと言う。
当たり前です。
小作人や在日の人たちも、戦後がいいと言う。
税金もかからないし、闇商売でもつかまらないから、こんないいことはないわけです。
それから、戦後がよかったと言う一番重要な人たちは左翼です。
共産党はほとんど全滅していたので問題にならないんですが、シンパというのが非常に広がっていた。
この稿続く。