「撤退すれば第二第三のシナ事変は必至」――譲れなかった撤兵問題
対米交渉が完全に行き詰まる中でも、日本政府・軍部は対米戦争計画を持っていなかった。東條英機は、シナからの安易な撤退が侮日思想を増長させ、さらなる紛争を招くと明確に認識していた。
2017-06-17
以下は前章の続きである。
アメリカは、この後交渉しても一歩も譲ったことはない。
駐英大使がイーデン英外相に電報を打っているが、そこでは「松岡の辞任や日本の石油備蓄状況などを鑑みると、いまがアメリカとしても日本との交渉の好機ではないか」といった趣旨のことを報告している。
しかし、アメリカにはまるで歩み寄りの姿勢は見られなかった。
この段になっても、日本の政府も軍部もともに対米戦争の計画は持っていなかった。
後日、東京裁判で争われた「共同謀議」が意味を成さないことを示すひとつの証左と言える。
そして昭和十六(一九四二年九月六日の御前会議を迎える。
ここでは、「弾発性」という言葉を使って、徒に対米交渉をずるずると延ばせば、米英蘭による対日制裁のために、日本は戦う力を喪失してしまうということを克明に述べている。
石油なし、屑鉄なしで、日本の防衛を司る統帥部としては一歩も譲れなかった。
またシナ撤兵問題についても、譲歩しない理由を「もしここで撤退したらシナの侮日思想はますます増長し、第二第三のシナ事変が勃発するに違いない」と言い切っている。
撤兵したくとも軽々にそうすれば、さらなる混乱が大陸に、そして日本とシナとのあいだに巻き起こることを東條は危惧していたのである。
現在のイラク問題で、容易にアメリカが撤兵できないことと同じだろう。