公共財=市場の失敗という倒錯――経済学が見失った社会の基盤
月刊誌『正論』10月号に掲載された西部邁の論考は、公共財を「市場の失敗」とみなす経済学の倒錯を鋭く批判する。
価格安定、雇用、公共活動、モラルとヴィジョンの重要性を通じて、マニフェスト政治と合理主義の虚妄を暴く必読の論文である。
2016-10-08
公共財はマーケット・フェイリュア(市場の失敗)をもたらす典型例だとみなす経済学の倒錯のせいだ
以下も月刊誌正論10月号の西部邁氏の連載論文からの抜粋である。
日本国民全員と世界中の人たちが読まなければならない論文である事は言うまでもない。
文中強調は私。
前文略
社会格差に本当に関心があるなら、まずもって市場の価格安定性に気を配らねばならない。
その安定性があってはじめて、とくに雇用をめぐる長期(暗黙)契約が落ち着いたものになり、さらには投資(および貯蓄)計画も乱高下を免れうるのである。
そんなことは婚姻という長期(暗黙)契約の成り行きをみているだけでも、つまり夫婦が和するように努めなければその男女関係が修羅場と化すということからも、すぐ察しられることではないのか。
社会をそうした安定に導くために(それどころか「市場の成立条件」の最たるものとして)公共(事業というよりも)活動がどれほど大事か、論じるまでもあるまい。
具体的には、人々の所得、健康、教育、交通が、そして過去からの精神的遺産としてのモーラルと未来への共同作業を可能にするヴィジョンとが健全でなければ、交換制度がうまく機能しないということである。
それなのに、格差是正論と手を携えたのはいわば公共事業悪玉論であった。
そんな愚論がはびこったのは、「まず市場が成立している」として、次に公共財はマーケット・フェイリュア(市場の失敗)をもたらす典型例だとみなす経済学の倒錯のせいだ。
「公共事業があってようやく市場が成立する」という場合がむしろ多いのである。
戦後日本人にあって次第に濃くなっていくそうした偽善さらには錯誤を民主党は代表しただけのことなのであろう。
それらの偽善や錯誤によって(新模型の新流行を旨とする)「模流時代」を正当化する雰囲気が捏造される。
そしてそれがムードにすぎないことを隠すために、御大層めかした「形式と数量」が、政策の数値・期限・工程が設計されるというふうな調子でマニフェスト(公言)するのが「マニフェスト政治」であったのだ。
だがそれ以上に気掛かりであったのは、「厳密めかした形式」と「豊富めかした数量」とによって未来をプレディクト(予測)することができるとする合理主義が、マニフェスト政治によって宣明されたことだ。
それはアメリカニズムの本質にほかならず、グローバル・キャピタリズムが世界を席捲し破壊しているのはまさにその「危機を予測することができる」とするブルシット(嘘話)によってなのである。
リスク(危険)のマネジメント(管理)は可能でもクライシス(危機)にはルーリング(統治)を施せるだけ、という(マイケル・オークシヨツト流の)保守論が一顧だにされない結果、こんな嘘話の大流行となったわけだ。
なお、ここでルーリングというのは(技術知ではなく)実践知による集団運営法といったくらいの意味のことだ。
そのせいでIT(情報技術)の役割に過大な期待が寄せられもした。
彼らの頭のなかで不確実性には確率的に予測できるものとしてのリスクしかなく、それゆえに確率計算などの通じないクライシスのことは念頭から追い払われているのである。
そのクライシスへの対処としてHO(ヒューマン・オーガニゼーション)つまり集団・組織が作られ文化が維持されてきたことも彼らは理解しない。
この稿続く。