軽薄きわまる言葉のコンフォーミズム――マニフェスト政治と日本の思考停止
月刊誌『正論』掲載の西部邁による連載論文の続編。
マニフェスト政治に象徴される日本社会の「言葉の画一主義」を批判し、3.11と福島原発事故を通じて、日本人の想定・予測・想像の混同という致命的欠陥を鋭く抉り出す必読の論考である。
2016-10-08
こうした日本の「軽薄きわまる言葉のコンフォーミズム(画一主義)」についてであったのだ
以下は前章の続きである。
そのアメリカ流の詐欺に日本が吸い込まれていくのを、二十一世紀初頭の社会のあるべき姿として、我が国の(比較的に)左翼的な勢力が盛大に応援したのである。
ー全学連や全共闘の(すでに老年期に入った)世代が民主党の勝利に小躍りしているのを老人は何度もみせつけられたー。
しかもその左翼風があまりに強いたため、自民党をも含めて、マニフェストを口にせぬ勢力は一つもなくなるという始末になった。
老人が気にしたのは、こうした日本の「軽薄きわまる言葉のコンフォーミズム(画一主義)」についてであったのだ。
その画一主義とは近代主義(という左翼の本質的な養分)を国民とその代表者が腹一杯に食するということにほかならない。
その矢先に3.11の東北大地震と(菅直人首相の現場への過剌介人としての「人災」の可能性すら強い)福島原発大事故とが起こった。
そして東京電力の社長が「想定できぬことをも想定しておくべきであった」と謝罪したのである。
あまりにも明瞭なのはプレザムプション(想定)には、不確実性の度合に応じて、様々の段階があるということにかんする(東電を含む)日本人の無知という点だ。
つまり、プレディクション(「予測」すなわち「形と量」にかんする確率的な期待)とアッテイシベーション(「予想」すなわち「形と量」について曖昧なままの期待)とイマジネーション(「想像」すなわち「形と量」について何の確実性をも想定できぬ漠たる期待)、という三段階の区別が何もなされていないのである。
この地震と事故は、せいぜいのところ「想像しておくべきであった」といえる程度のものにすぎない。
今はもう誰もマニフェストについて語らない。
あれほど暄ましかった公共事業をめぐる「事業仕分け」なるデモンストレーション(示威)をする者たちもいなくなった。
この稿続く。