世界の無知ではなく、本物の知性が書いた史論— 黄文雄が解剖する支那思想と虐殺の構造 —
黄文雄による、別冊正論26掲載論文の続編。
支那王朝の易姓革命、宗教と虐殺、儒家思想によるジェノサイド正当化、そして二十世紀中国の心性と混乱を、文明史の視点から徹底的に分析する。
2016-10-11
世界の無知とは違う、本物の知性によって書かれた論文の続きである。
以下は黄文雄さんの、3月に発売された別冊正論26に掲載されていた、世界の無知とは違う、本物の知性によって書かれた論文の続きである。
見出し以外の文中強調は私。
支那歴代王朝の易姓革命(天命による王朝交代)期には、天下が崩壊し、カルト集団を中心に民乱が絶えなかった。
実際は、世俗化した漢人が宗教と絡めて異民族を虐殺した場合が多い。
ダライ・ラマ十四世に言わせると「文化虐殺」である。
辛亥革命後の満洲人大虐殺や、人民共和国のモンゴル大「革人党」粛清は、宗教とイデオロギーにも絡む。
支那の宗教問題は、世俗対宗教であることがほとんどである。
有名な「三武一宗」の廃仏毀釈は、道教だけでなく儒教徒も絡んだ。太平天国は儒教の世俗的な団練(民軍)と「拝上帝会」というキリスト教系カルト集団との殺し合いだった。前述の「洗回」なども然り。
異民族虐殺は、宗教などの文化虐殺と連動しながら、世俗対宗教というかたちをとる。
チベット問題やウイグル問題は、それぞれ、孔子対釈迦、孔子対マホメットのケンカと捉えることがより本質的と考える。
虐殺を正当化する儒家思想
支那の思想には二大潮流がある。
「人為」を語る孔子・孟子の儒学思想と、「無為」「自然」を説く老子・荘子の道家思想で、儒家思想は黄河文明、道家思想は長江文明の精神的・思想的申し子ともみなされる。
二千余年前の漢では文帝・景帝の代に道家思想が主役で、自由放任な「黄老の術」が泰平な「文景の治」を生んだ。
しかし次の武帝が「百家排斥」「儒家独尊」として以来、儒学は国教・国是となった。
ただ儒教の「徳治」など実際は不可能で、歴代王朝では「建前」だけの官学となった。
東洋学の大家・橘撲は「官は儒、民は道」であり「まさしく二つの民族」とまで指摘している。
儒学思想の本質は「昔は好かった」という「尚古主義」であるが、「人為」の過信から「人は自然に勝つ」という考え方が強い。
老荘の道家とは違って、自然との共生を拒否し、華夷意識が強烈である。
孔子の著とされる『春秋』は「尊王攘夷」と「華夷の別」を強く説き、支那人の「春秋の大義」の思想的根拠となる。
中華世界への脅威は、秦の万里長城でわかるように、匈奴はじめ北方の夷狄が主であったが、孔子の時代はむしろ長江文明の流れをくむ南の楚が敵であった。
ことに楚が呉越を呑み込んでから、中原の国々にとってこの南蛮が最大の脅威であった。
ではなぜ、儒教は虐殺の論拠となったのか。
孔孟の古儒学だけでなく、宋から明までの新儒学も、火狄との対立から華火の別を強く土張している。
朱子学も陽明学も同様である。
とくに陽明学は、夷狄虐殺を「天誅」「天殺」とし、ジェノサイドを正当化している。
明末の大儒・王夫之以後の新儒学は、たいてい「仁義は人間のみに適用され、夷狄は禽獣だから、殺しても不仁と言わず、裏切っても不信不義とは言えない」と説き、近現代支那の虐殺の国学となった。
二十世紀支那人の心性と振る舞い
辛亥革命後の支那は、わずか四十年ほどで帝国から民国そして人民共和国と、三度も国体と政体が変わった。
もちろん人民共和国も、毛沢東時代と鄧小平以後では政体が異なることは「常識」である。
なぜ二十世紀の支那はそこまで動揺し不安定なのか。
「二十世紀の支那人に独特のメンタリティ(心性)とビヘイビア(振る舞い)は何か」を知ることは、現在の中国を知ることにもなる。
日本人はそれで、彼らに振り回されないことにもなる。
歴史のスパンをもう少し伸ばせば、視野も広くなる。
たとえば、明は漢人の王朝であり、中華民国も人民共和国も漢族が主役であった。
満洲人による清朝は、康煕・雍正・乾隆帝の三代が史上初めて「人頭税」までをも減免し、支那人が最も幸せな時代だったといわれる。
逆に明代は廷臣の人権どころか、全民が特務の監視下で雁字搦めにされ、最も暗黒の時代とまでいわれる。
この清朝、さらに民国の時代について文化・文明史的比較は進んでいない。
日本では「日本の中国侵略」ばかり流布するから、本質の多くが語られない。
私か漢文で『中華民国百騙』(前衛出版)を書いたのは「目を中国の真実にもっと向けよ」の意図もある。
中華民国は支那史上、五代十国を上回る未曽有のカオス(混沌)の時代だったという「常識」は、日本ではあまり語られない。
唐は安史の乱後に五十前後の国家に分裂し、五代十国まで統廃合して宋となっても、北方の契丹、女真、モンゴルに脅かされ、その国際環境下で新儒学が再生した。
江戸時代の朱子学者も、それ以後の東洋学者も支那学者も、戦後の中国学者も、漢字と漢文で支那を知った。
人民共和国については中共のお墨付きでなければ知ることが困難で、しかもこの国では国と民がずっと対立関係にあるので、結果的に国家像は「偏見」となる宿命をもつ。
二十世紀支那は未曽有の乱世だっただけでなく、支那人自身に「戮民」という虐殺の心性と振るまいが増長した時代でもある。
政権が多すぎたためだ。
国民党だけでも、有力者や党派が広州、武漢、南京、北京などに勝手に政府をつくり、内ゲバの中原大戦だけで百五十万兵力が動員され、死者三十万人を出した。
匪賊は常に政府軍の十倍にものぼり、各武装勢力の殺し合いが続き、「匪賊社会」「匪賊共和国」とも称された。
この稿続く。