「片方が銃を向けていて、もう片方が何も持っていない」場合は、たとえ話し合っているようにみえても
外交において話し合いと戦争は対極ではなく同一線上にある。軍事力は戦争のためだけでなく、交渉の前提条件でもあることを示し、日本が欠いている外交の「片輪」の現実を明らかにする。
「片方が銃を向けていて、もう片方が何も持っていない」場合は、たとえ話し合っているようにみえても
2016-10-31
以下は前章の続きである。
たとえるなら、「譲れない価値観を賭けた口喧嘩」と「譲れない価値観を賭けた殴り合いの喧嘩」が手段が違っても同質・同種のものであるように、話し合いと戦争は正反対ではなく、同一線上にある外交の一部なのである。
米国の代表は米国国民にとっての「損を最小に、得を最大に」するためあらゆる努力をする。
中国の代表は中国国民にとっての「損を最小に、得を最大に」するためあらゆる努力をする。
韓国の代表は韓国国民にとっての「損を最小に、得を最大に」するためあらゆる努力をする。
この外交の「目的」を、豊か過ぎる日本は見誤ることが往々にしてあるのである。
余談になるが、アメリカの「国防総省」と「国務省」を日本の省庁にあてはめると(少々大雑把な括りになるが)両方とも「外務省」に該当すると考えていい。
“アメリカの2つの外務省”がどう違うかといえば、前者がアメリカの国防・軍事の統括に加えて「軍事に関する外交」を行い、後者が日本の外務省に似た形の「非軍事分野での外交」を行う。
そして国防総省はアメリカの官庁では「最大規模」である。
この“両輪”がアメリカの外交政策を強固なものにしているのだが、日本には、その“大きいほうの片輪”が無いのだ。
「軍事」に関する全ての言葉に過敏なアレルギー症状を持つ日本人には盲点になりがちだが、世界の常識では軍事力とは、戦争のためだけのものではない。
外交や交渉を行う上での前提条件としての意味もあるのである。
もちろん話し合いで解決するならそれが最も効率的で平和的であることに違いはない。
だが、たとえば「銃を向け合う2人」の間には話し合いが成立するし、「互いに丸腰の2人」の間にも話し合いが成立するのに対して、
「片方が銃を向けていて、もう片方が何も持っていない」場合は、たとえ話し合っているようにみえてもそれはまともな話し合いとはいえない。
この稿続く。