魯迅が描いた「卑怯さ」と「残忍さ」――阿Qと村人に宿る中国人精神の深層。
**魯迅の『孔乙己』『阿Q正伝』を通して描かれたのは、一部の権力者ではなく、普通の村人や労働者に深く根付いた卑怯さと残忍さだった。石平**の論考は、中国人の国民性そのものに迫る。
われわれが再び見せつけられるのは、村人と阿Qの心の中に深く根付いている「情けないほどの卑怯さ」と
2016-11-19。
つまり魯迅から見れば卑怯にして残忍なのは、一部の特別な中国人だけではないということだ。
2015-10-20。
以下は、私が何度か言及してきた優れた月刊誌であるVOICEの今月号、前章でご紹介した石平さんの、大論文の最終回からである。
前章で言及したように、私はこれをサンフランシスコ市の議員たちに贈る。
前文略。
返す刀で、何の抵抗力もない一人の若い尼さんを徹底的に侮辱する。そうすることで自分自身の受けた屈辱を忘れて良い気分になるのである。
そして「酒屋の連中」も、阿Qが弱い者を虐める光景を楽しみ、笑い声をもってそれを奨励する。こうしたなかで「手柄を賞賛された」阿Qはよりいっそう意気高揚して、弱い者虐めに励む。
結果的には、この村社会で一番弱い立場の尼さんの「半泣き」と引き換えに、村人と阿Qはそれぞれ「九分」と「十分」の満足感を味わって愉快になったのである。
「孔乙己」で見られたような「人が人を喰う」場面が、ここでも繰り広げられている。
われわれが再び見せつけられるのは、村人と阿Qの心の中に深く根付いている「情けないほどの卑怯さ」と、「恐ろしいほどの残忍さ」である。
中国人が自己認識を深めた「重要なる他者」とは。
魯迅が「孔乙己」や「阿Q正伝」において「卑怯にして残忍な人間精神」の持ち主として描いたのは、「社会の異端」としてのごろつきや一部の権力者ではなく、普通の労働者や村人であった点はとくに注目すべきであろう。
つまり魯迅から見れば卑怯にして残忍なのは、一部の特別な中国人だけではないということだ。
中国の一般民衆、すなわち中国国民の精神構造の深いところに巣食う、中国人の国民性そのものなのである。
この稿続く。