「中世の秋」――文明の終末を嗅ぎ取った歴史家 ヨハン・ホイジンガ

オランダの歴史家 ヨハン・ホイジンガ は、14〜15世紀フランスとネーデルラントの精神風景を精緻に読み解き、そこに一つの文明が終末へ向かう「気配」を見出した。主著『中世の秋』は、ルネサンスを「誕生」ではなく「終焉」から捉え直す、20世紀歴史学の画期である。

この歴史空間では濃密に一つの文化の終末の気配を漂わせている。
すなわち「中世の秋」である。
2016-12-06
ヨハン・ホイジンガ
ヨハン・ホイジンガ、またはホイジンハ(蘭: Johan Huizinga[1]、1872年12月7日 – 1945年2月1日)はオランダの歴史家。
サンスクリット文献研究から歴史研究に転じた。
『中世の秋』『ホモ・ルーデンス』などの著作で知られる。
生涯
フローニンゲンに生まれる。
フローニンゲン大学で文学を学び、卒業後ハールレムで中等教育の教鞭(きょうべん)をとったが歴史学への転身を図り、論文「ハールレム市の成立」を作成し、1905年フローニンゲン大学外国史・国史学教授に就任。
1915年ライデン大学外国史・歴史地理学教授に転任してライデンに住んだ。
1940年ナチス・ドイツ軍のオランダ占領によって事実上閉鎖されるまで、同大学教授職にあった。
1942年占領軍によって居住地域を限定され、アルンヘム近郊デ・ステークに住み、1945年2月同所で死去[2]。
主著『中世の秋』は、1919年に出版された。
19世紀後半に出版されたブルクハルトの『イタリアにおけるルネサンスの文化』が、15・16世紀のイタリアに観察の視線を限定しているのに対し、ホイジンガは、14・15世紀のフランスとネーデルラントに実証的調査と史的想像力の翼を広げる。
同時代人の記録に固着、帯びただしく広まっているものの考え方、感じ方のある一定の調子から推測判定するに、この歴史空間では濃密に一つの文化の終末の気配を漂わせている。
すなわち「中世の秋」である。
『中世の秋』出版後、ルネサンス問題に関する論考、エラスムスやグロティウス、あるいはアベラールをはじめ、12世紀の精神を訪ねる著書・論文など業績は幅広いが、『朝の影のなかに』の出版(1935)の前後からナチズムに対する批判、ひいては現代文明批評の方向へ彼の関心は収斂(しゅうれん)する。
『ホモ・ルーデンス』(1938)は「遊戯の相の下に」ヨーロッパ文明の成立と展開と衰亡の過程をみる試みで、デ・ステークの配所で綴(つづ)った『わが歴史への道』(1947)は現代へ残した自伝的遺書である[2]。
年譜
1872年、オランダ北東部のフローニンゲンで生まれる。
1891年、フローニンゲン大学に入学。
比較言語学を学ぶ。
1897年、古代インド演劇に登場する道化をテーマにした論文「インド演劇におけるヴィデュシャカ(De vidûsaka in het indisch tooneel)」で学位取得。
ハーレムの実科高等学校で歴史を教える(1905年まで)。
1903年、アムステルダム大学私講師。
バラモン教、仏教を講じる。
1905年、論文「ハーレム市の成立」を発表、母校のフローニンゲン大学教授。
1915年、ライデン大学教授。
1919年、『中世の秋』発表。
1929年、王立科学アカデミー歴史・文学部門主席。
1932年、ライデン大学学長。
1936年、国際連盟知的協働国際委員会委員。
1938年、同副議長。
『ホモ・ルーデンス』発表。
1942年、ナチス批判を行った廉でオランダに侵攻したナチスドイツによって強制収容所に収監される。
まもなく釈放されたが、以後事実上の軟禁状態となる。
1945年、オランダ解放直前に逝去。
この稿続く。

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