真珠湾と歓喜した者たち— 米英ソを同時に救った日本の南進とハル・ノートの真の狙い —
日本の真珠湾攻撃は、米国参戦を切望していた英首相チャーチルを歓喜させ、ソ連のスターリンを安堵させ、蒋介石政権を利する結果となった。
ハル・ノートは偶発ではなく、ナチス・ドイツのモスクワ攻略失敗後、日本が米国との妥協へ転じる可能性を封じるために放たれた、南進誘導の最終挑発であった可能性がある。
長谷川煕氏の論文を通して、開戦前夜の国際政治の深層を読み解く。
日本の真珠湾攻撃を聞いて、これで切望の米国参戦が成り、イギリスは助かったと英首相チャーチルが喜び
2016-12-17
以下は長谷川煕氏の論文の続きである。
日本国民全員と世界中の人たちが読むべき、これこそ本物の論文である。
文中強調は私。
しかし、それにしても異様なハル・ノートを突如日本に突き付ける経緯に関しては、それより75年過ぎた2016年末現在も、これこそが真相という定説がない。
とりあえずの時間稼ぎを担った暫定協定案を米国務省は作成し、イギリス、オーストラリア、オランダ、蒋介石の中華民国国民政府(重慶)の意向を質したところ、英豪蘭は同意したが、蒋介石の強烈な反対論を顧問職の米人オーエン・ラティモアがルーズベルトの補佐官の一人で自分と同様のマルクス主義者のラフリン・カリーに伝え、急遽ハル・ノートに変えられたという説が、これまでのところ比較的具体的であるが、最近、前出の『そのとき、空母はいなかった』の著者白松繁が同書の中で興味深い推測をしている。
それは、11月下旬に入ってナチス・ドイツのソ連首都モスクワの攻略が失敗しつつあることが明確となり、同盟国ナチス・ドイツのこの頓挫に日本側が驚き、米国との大妥協へと方向転換する可能性が生じたので、それを食い止め、日本に南進させる一層の挑発としてハル・ノートが出現したという見方である。
ともあれハル・ノートを渡されて11日後に日本は米英に開戦し、すぐオランダが日本に宣戦した。
日本の作戦は、米ハワイの真珠湾、英領マレー半島、英領香港への攻撃、中華民国上海の共同租界の接収から始まった(米国への最後通告が在米日本大使館の怠慢で真珠湾攻撃より約一時間も遅れ、作戦の常道の奇襲が騙し討ちとされた問題についてはこの序説では省略する)。
日本の真珠湾攻撃を聞いて、これで切望の米国参戦が成り、イギリスは助かったと英首相チャーチルが喜び、安堵したことはよく知られているが、ソ連独裁者スターリンも、北進でなく南進へと日本が舵を切ったことに狂喜したであろう。
対日協力政権である汪兆銘国民政府内が悲嘆に暮れた一方、抗日の蒋介石の国民政府内が歓喜にあふれたことも文献に記録されている。
この稿続く。