言論戦を放棄した時点で敗北は決した—訴訟に向かった朝日新聞への批評
小川榮太郎著『徹底検証「森友・加計事件」』をめぐる朝日新聞との対立は、本来言論で戦われるべきものだった。
しかし法廷闘争に踏み切った時点で、言論機関としての敗北は決していたのではないかという視点から、日本のメディアと表現の自由の本質を問う。
さて、朝日はこの詳細な論評にどんな反論をするのだろうか、と興味は尽きなかった。
2018-01-29。
以下は前章の続きである。
昨年10月に出された小川氏の著書『徹底検証「森友・加計事件」朝日新聞による戦後最大級の報道犯罪』(飛鳥新社)は、非常に興味深い作品である。
ほう、こういう見方があったのか、あるいは、こんなウラがあったのか、とページを繰る手が止まらなかった。
さて、朝日はこの詳細な論評にどんな反論をするのだろうか、と興味は尽きなかった。
やはりスポーツであろうが、格闘技であろうが、死力を尽くした闘いはおもしろい。
ジャーナリズムの世界も同じだ。
ベストセラーとなった同書と、朝日との言論戦ほどわくわくするものはなかなかあるものではない。
しかし、私の希望は見事に裏切られた。
冒頭のように、朝日は言論戦を放棄し、法廷での訴訟戦に打って出たのである。
なんとも言えぬ嫌な感じがした。
私の頭に浮かんだのは、先のヴォルテールの言葉だった。
朝日のモリカケ報道を見て、どれだけの人が「公平な報道」だと思っただろうか。
その報道姿勢に疑問を抱いた人はどれだけいただろうか。
“報じない自由”を行使し、自らの主張にマイナスになる情報は、容赦なく捨てられた。
その報道姿勢そのものを糾弾する小川氏の論法は、実に詳細なもので、迫力があった。
それだけに、言論と言論ががっぷりと組み合う闘いをこの目で見たかったし、読みたかった。
だが、その望みは絶たれた。
なぜなら、この時点で「勝負はあった」からだ。
言論機関が司法に救済を求めた時点で、朝日はすでに「敗れた」のである。
どうか、ありあまる資金にものを言わせて優秀な弁護団を組織し、訴訟に勝ってください。
しかし、自ら言論機関であることを否定した朝日には、もはや「明日」はないのである。