八幡堀と近江商人の源流――秀吉の構想が生んだ水運都市の記憶
滋賀県近江八幡市の八幡堀は、豊臣秀吉の構想によって築かれ、徳川三百年を通じて近江商人の財力を支えた物流の大動脈であった。
琵琶湖水運の中心として発展したこの水路は、現在も往時の面影を残し、歴史と自然が融合した風景を今に伝える。
その設計思想には織田信長以来の戦略的都市構想が息づいている。
この湖面の上を縦横ななめに疾駆したのだ。人生の師というべき織田信長そのままの構想。
2018-01-31
以下も昨日の産経新聞からである。
見出し以外の文中強調は私。
門井慶喜の史々周国。
八幡堀。
滋賀県近江八幡市。
近江商人財力の源流。
正式名称は八幡川だが、ここは「八幡堀」と古色をつけるほうが気分がいい。
何しろ開削したのは豊臣秀吉の甥の秀次だったのだし、そののちは徳川三百年を通じて近江八幡の街をささえつづける物流の大動脈だった。
その風景はいまも往事のおもかげを残しているのだ。
たびたび時代劇のロケに使われるというのもよくわかるし、SNSご愛用の向きにも一瞬の名画になるだろう。
私が最初にこの街をおとずれたのは『屋根をかける人』の下調べのためだった。
明治末期にこの街に居をさだめ、大丸心斎橋店、明治学院大学などたくさんの作品をのこした建築家W・M・ヴォーリズに関するもろもろを見に来たのだが、当面関係ないはずのこの八幡堀にふしぎと私はうしろ髪を引かれて、―こんどは、これを見に来よう。
二度目のときは、真冬だった。
しかも雪にみまわれた。
いっときは前も見えないほどの吹雪になった。
が、小やみになると、そこにあるのはもはや徳川時代をこえて民話そのものの風景だった。
大阪から電車でほんの一時間のところにこれがあるという事実に私はおどろき、かつ安堵のため息をついたのである。
自然と人間のいとなみが、時間という触媒を得て、ここで完璧に鎔和している。
そのながれは、もとをただせば琵琶湖である。
上から見た地図でおおまかに言うと、琵琶湖の南岸から定規で線を引くようにして南へ水路を引き、それを東へ、北へと折りまげて琵琶湖にもどす。
それが八幡堀である。
線内には自然の山(八幡山)があり、その上に秀次は城をきずいたわけだが、これはもちろん叔父・秀吉の指示による。
秀吉はここに、いわば豊臣家の安土城をつくりたかったわけだ。
軍事的要塞でありつつ琵琶湖を扼する商業都市。
当時の琵琶湖はいうまでもなく日本の中心に位置して京・大坂、北陸、および東国をむすぶ大水運網の舞台だった。
米も、塩も、反物も兵隊も、みなこの湖面の上を縦横ななめに疾駆したのだ。
人生の師というべき織田信長そのままの構想。
この稿続く。