八幡堀から近江商人へ――資本蓄積と明治日本経済の源流
豊臣秀吉・秀次によって築かれた商業都市近江八幡は、やがて近江商人を全国へ送り出し、明治日本の資本形成と経済発展を準備した。
八幡堀は単なる水路ではなく、歴史と資本が流れた日本経済の源流の一つである。
アメリカ人建築家ヴォーリズもまた、この特異な商都の歴史と精神に導かれて活躍した。
のちに彼らが全国へ散り、いわゆる近江商人となり、資本の蓄積をたくましくして明治日本の経済発展を。
2018-01-31
以下は前章の続きである。
そうして秀吉=秀次はこの街に、それこそ安土城ばりに楽市楽座の令まで発したから、国替えで秀次がよそへ行き、城が空き家になってしまうと、この街にはただ生きのいい商人だけが残されることになった。
街そのものが市場になった、といえるかもしれない。
のちに彼らが全国へ散り、いわゆる近江商人となり、資本の蓄積をたくましくして明治日本の経済発展を準備したという事実を考えると、八幡堀は、文字どおり歴史の源流のひとつである。
ここにはお金がながれていたのだ。
そうしてW・M・ヴォーリズは、明治期に、こういう商都に来たのである。
彼はアメリカ人である。
はじめてこの水路をまのあたりにして、街の人に、「ああ、秀次さんのころやから、三百年前のしろものやな」と教えられたとき、よほど仰天したのではないか。
三百年前には故郷の大陸にはまだメイフラワー号も来ていなかった。
大統領もいなかった。
そもそも国家の歴史がはじまっていなかったのだ。
-これはまた、ふるい国に来た。
ヴォーリズはそう思っただろう。
しかもその歴史の質は、きわめて例外的なことに、さむらい支配のそれではなかった。
ほぼ純粋な商人のそれだった。
これは奇跡としか言いようがない。
ヴォーリズ自身もまた故国では、子供のころから、何かを売ることの天才だったからだ。
もしも彼の来たのが京都や東京だったとしたら、はたしてここまで驥足をのばし得ただろうか。
建物を建てるまではしたとしても、その上さらにあの「万能薬」メンソレータムまでも大売りに売ることができたかどうか。
土地が彼に力を貸したのだ。
…そんなことを思ううち、私はあんまり体がひえたので、近くの料理屋にとびこんだ。
ガスストーブで暖をとりつつ鮎の煮つけを食べたけれども、私にはややこっくりと甘すぎた。
砂糖が贅沢品だった時代にも、この街の人は、この味で、この琵琶湖のめぐみを口にしたのだろう。