司馬遼太郎の『故郷忘じがたき候』なんて、他国の史観から日本史を裁断した噴飯物です。 あれは優秀な陶工を呼んで、日本は粘土の山まで与えて、畑まで供与し、待遇がものすごくよくて。 絵付けの技術とか、みんな日本が教えたらしい。 それで、これは最高の環境だからみんな仲間を呼んで、「あんたたち、もう帰ってもいい」と言っても、誰も朝鮮には帰らなかった。
朝鮮は貧しい上に染色の技術がなかった。みな洗いざらしの木綿服ばっかりだった…
2021年12月21日
昨日発売された月刊誌、WillとHanadaには日本国民のみならず世界中の人達が必読の論文が満載されている。
それでいて、それぞれ950円(税込)なのである。
およそ、これ以上、コストパフォーマンスが高いものは無い。
活字が読める日本国民は全員が最寄りの書店に購読に向かうべきである。
戦後の世界で唯一無二のジャーナリストである高山正之と、梅棹忠夫に匹敵するフットワークで知的生産を重ねている宮崎正弘の対談本である、世界を震撼させた歴史の国日本、は、老若男女を問わず、日本国民全員が、年末年始の休みに購読しなければならない。
p38-p46
⑦朝鮮通信使は日本の大赤字
高山
日本が外交で学ぶべきは朝鮮半島との関係です。
百済を助けようと斉明女帝が船団を率いて出兵してみたら、白村江で待っていたのは唐の大軍で大敗してしまう。
朝鮮人の言うことを聞くといつもろくでもないことになる。
この時は唐の大軍がくるのに備えて水城を築いて国内の防備を固めたりしている。
文永の役(1274年)と弘安の役(1281年)の二度にわたる蒙古襲来の時は、中身はモンゴル軍ではなく高麗軍だった。
次は朝鮮通信使だ。
義満の後、義教のころからやってくるようになる。
室町時代にやってきた通信使は李氏朝鮮の4代目の世宗が派遣した短期留学生のようなものだった。
世宗から何を学ぶかを命ぜられていて、まずは灌流用の水車の作り方の指導を頼んだ。
その他、やれメッキの仕方を教えてくれとか、紙の漉(す)き方から染色の仕方まで教えてくれと。
あちらにはほとんど文化はなかった。
宮崎
生殖の仕方も習ったんじゃないの。
高山
それも教えたんだろうけれども、まったく教え甲斐がなくて、次に来るとまた同じことを「教えてくれ」だった。
せっかく日本から文化を学んでも駄目だった。
筑波大学の古田博司教授が指摘しているように、朝鮮半島では文化がどんどん後退、衰退していったらしい。
昔は木工もできたのに、とうとうそれもできなくなった。
木を丸めて車輪をつくることもできなくなった。
ただ、これは想像だけど、彼らはひらがな・カタカナの機能を学んだのではないか。
日本人が漢字を使いながらひらがなを使って日本語として咀嚼(そしゃく)しているのを見て、それで、諺文(オンモン)、いまで言うハングルを世宗が思いついたんじゃないか。
「ではウチでも朝鮮片仮名をつくってみる「ムニダ」とかね。
要するに、日本式かながハングルになるわけだ。
東洋史学者の宮脇淳子さんにその推測を話したら、諺文の文字はモンゴル語系のパスパ文字(モンゴル文字)をまねたものだという。
彼らはこの時、漢字を自分たちの言葉で読むという、ひらがな・カタカナの考え方を学んだ。
ただ、独創性がないからパスパ文字を利用したのだろう。
この朝鮮通信使が二言目に言っているのは、「ああ、悔しい」だった。
「こんないいところを日本が持ってる」とか、「こんな瓦葺きの家々があって悔しい」とか。
要するに、嫉妬と嫉みに狂ってるわけだ。
世宗が「これはいい」と諺文を生み出しだけれど、次の代になると「何だ、諺文のヒントは日本かよ」という独特の彼ららしい反応が出てくる。
宮崎
日本から教わったなんて「恥スミダ」と思ったわけですか。
高山
だから、そう考えると、非常に理にかなっている。
世宗のあと諺文をパッタリ使わなくなった理由はそこにあったのではないか。
宮崎
日本は1910年の日韓併合以降、4000の学校をつくり、読み書きを普及させた。
世宗から500年。
水車にしても、水は高きから低きに流れるという原理は知ってるし、水車のてこの応用までは知っていた。
ところが日本には歯車によって違う方向に力がいくという技術があった。
これは目がくらむような応用技術なんだよね。
例えば陶工にしたってそうじゃないですか。
みんな、向こうから来たなんて言ってるけど、全然違う。
司馬遼太郎の『故郷忘じがたき候』なんて、他国の史観から日本史を裁断した噴飯物です。
あれは優秀な陶工を呼んで、日本は粘土の山まで与えて、畑まで供与し、待遇がものすごくよくて。
絵付けの技術とか、みんな日本が教えたらしい。
それで、これは最高の環境だからみんな仲間を呼んで、「あんたたち、もう帰ってもいい」と言っても、誰も朝鮮には帰らなかった。
高山
そうそう。だから秀吉が無理やり連れてきたというのではない。
通説と全然違うわけでしょう。
ここまでが最初の朝鮮通信使で、それが徳川幕府になって再開されるけれど、2度目はまったく性格を異にしている。
何というか、彼らのための招待旅行みたいなものだった。
というのも、発端は朝鮮征伐の後始末から始まった。
「秀吉の時代、あなたの国を随分荒らしました。ご招待するので友好親善と貿易を再開しましょうか」から始まった。
その交渉を任されたのが対馬の宗家20代目宗義智(よしとし)。
関ヶ原では西軍について徳川に敗れた。
本来なら領地没収、改易となるところを「朝鮮との関係修復と朝鮮貿易の再開」を命ぜられた。
しかし秀吉の朝鮮征伐では小西行長について朝鮮軍を破って漢城を落としていたために、最初の交渉役は向こうで惨殺された。
いかにも朝鮮らしい。それでも何とか関係修復を達成した。
その成果がつまり江戸期の朝鮮通信使になるわけだけれど、日本側は朝鮮征伐という負い目がある。
彼らはそこに付け込んだ。
毎回、400人くらいでやってきては文字通りの大名旅行で江戸に参内した。
なにせ貧乏な国だから、途中の宿で出された食器から床の問の陶器から掛け軸から緞子(どんす)の布団まで洗いざらい持って行った。
京都大学所蔵の朝鮮通信使の道中絵が残っていて、彼らが民家の鶏を盗み、住民が追いかけて朝鮮人たちを懲らしめるさまが描かれている。
面白いことに日本側の住民は格子柄とか黒く塗られた衣装なのに、朝鮮人はみな一様に真っ白の着物姿に描かれている。
宮崎
朝鮮は貧しい上に染色の技術がなかった。
みな洗いざらしの木綿服ばっかりだったという史話をちゃんと描き示していたわけだ。
高山
その通りだ。
一行は徳川家の新将軍が就任すると、それを口実にやってきてはどんちゃんやっていく。
六代将軍家宣(家宣)の時代、新井白石が何の知的刺激もない、意味なく財政を浪費しているだけだと通信使の廃止を献策した。
一回に100万両かかった。大変な額だ。
それに彼らの道中の盗みもあり、幕府はその弁償もしなくてはならない。
宮崎
だけど福田康夫のように人の嫌がることはしない、外国に良く思われたいと思う浅はかな日本人もいる。
この時は老中の土屋政直がいい顔をしようとした。
高山
白石も老中がそう言うのじゃあ仕方ない、ただし接待は質素に、宿屋にはいいものを隠せと指示して経費を半分くらいにしたらしい。
宮崎
白石が偉いのはやっぱり国際情勢に通じていたことでしょう。
禁令を犯して日本に入り込んだ宣教師シドッチを生かして西洋事情を聴きだした。
高山
1708(宝永五)年、日本にやってきたシドッチね。
宮崎
本名はジョヴァンニ・バッテイスタ・シドッチと言って、イタリアはシチリア島生まれのカトリック司祭でしたね。
江戸幕府が禁教政策に転じているのを構わずに、鎖国中の日本へ出航する。
最初は鹿児島県屋久島に上陸したのだけど、言葉が通じないために捕らえられ、長崎から江戸に護送される。
幕政を担っていた新井白石が直接、尋問し、彼は尋問の内容をまとめた『西洋紀聞』と『采覧異言(さいらんいげん)』(世界地理書)なる名著を残す。
幕府に対して白石は「本国送還」を具申したのですが、江戸幕府はシドッチを茗荷谷の切支丹屋敷へ幽閉します。
注目すべきは、江戸幕府は彼をすこぶる寛大に扱い、拷間もなし、囚人ではなく、20両5人扶持ですよ。
しかし「宣教をしてはならない」という条件を破ったため、地下牢に移され、1714(正徳四)年に衰弱死する。
余談だけど、2014年にこの切支丹屋敷跡地を発掘したところ、驚くべきことに人骨が発掘され、国立科学博物館が調査したところシドッチの人骨とわかりました。
まさに異国に骨を埋めた。
朝鮮通信使への対応の違いを見ると、朝鮮通信使は日本にとって何の益もなかったということになる。
高山
白石のアンチ通信使の思いはその後、11代家斉の時に再燃して、老中松平定信が朝鮮通信使はもう江戸まで来なくていい、どこか適当な場所、対馬辺りで接待すればいいと言い出した。
いわゆる「易地聘礼(へきちへいれい)」となった。
朝鮮側はもっと物見遊山させろ、江戸まで行かせろと騒いだが、1811年、対馬での聘礼があって、朝鮮側はそれを最後に来なくなった。
彼らの目的はたかりだった。この結末が実によく物語っていると思うね。
宮崎
この朝鮮通信使は対馬から瀬戸内に入って広島の鞆の浦に上陸するのが定石だった。
あそこは絶景の地だったけれど、それ以上に瀬戸内の要衝でもあった。
だから足利義昭も信長に追われて都落ちした時、あそこに幕府を2か月くらいは開いていた。
島津の西郷も大久保も土佐の竜馬も鞆の浦に必ず泊まった。
あそこは結局、交通の要衝であると同時に当時の内外の情報拠点だった。
高山
鞆の浦はいまは開発反対の妙な左翼が頑張っていて道路の拡幅も認めない。
すっかりさびれてしまい、少なくとも交通の要衝ではなくなった。
*山田洋二が「釣りバカ日誌」で、この妙な左翼にエールを送っていた。
私は、ここを読んで、やっぱり彼は戦後の左翼文化人そのものなんだなと確信もした。
この事については後日に書く*
宮崎
1年前にも鞆の浦へ行きましたが、結構外国人観光客が来ていましたよ。
日韓共同で来年とかにユネスコの記憶遺産にするとか頑張っている。
朝鮮通信使をもっともらしく飾りたてるのではなく、はっきり彼らがニワトリ泥棒で、いまと変わらないことを示す記憶遺産にするのは歓迎ですが……。
高山
日本には朝鮮経由で支那からの文化文物が伝わった風な誤解がある。
それが大いなる過ちだということを実はこの二つの、つまり室町期、江戸期の朝鮮通信使の実態が示している。
彼らは唐辛子を倭辛子(わがらし)という。日本から伝わったことを示している。
支那大陸の南部、寧波、あるいは広東を経て日本に来た文物や生活調度品が日本から半島にもたらされたということの証拠でしょう。
現に半島では川の名前は洛東江とか漢江とか言う。江戸の「江」が川を意味する。
支那では朝鮮に近いはずの北京周辺が黄河とか熱河、遼河とか、川を「河」と書く。
対してそれこそ日本と交流のあった寧波以南では長江、黄浦江、珠江など「江」が使われる。
朝鮮に漢字が流れたのも日本経由と言ってもいいんじやないか。
とにかく黄文雄さんは、あそこには文化のブの字もなかった、まともな社会集団もなかった、文化的には無人の時代が長かったと指摘していますからね。
水車のつくり方も知らなかったぐらいだから。