私が選ぶ、戦後リベラル砦の「三悪人」、湯川秀樹、有吉佐和子、南原繁、科学という名の下に、

私が選ぶ、戦後リベラル砦の「三悪人」、湯川秀樹、有吉佐和子、南原繁、科学という名の下に、と題して掲載された
2018年08月14日

以下は月刊誌正論今月号(840円)に、私が選ぶ、戦後リベラル砦の「三悪人」、湯川秀樹、有吉佐和子、南原繁、科学という名の下に、と題して掲載された武田邦彦氏の論文からである。

見出し以外の文中強調は私。

日本にリベラルがはびこり、思想、学問、経済、社会に大きな災厄をもたらしている。

しかし、現在のリベラル派の中に論評に値する人物は存在しない。

振り返るべきは、「リベラル派に力を与えた周りの人たち=真の黒幕」であろう。 

親交のあったノーベル賞学者に、「武田先生、ノーベル賞を受賞して何が一番、変化したと思われます?」と聞かれたことがある。

筆者が「大きな賞ですから、かえって受賞後はご研究ができなくなったということでしょうか?」と答えると、彼は「いや、私が言うことならば全て感心されるようになったことです」と述べた。 

その受賞者によると、自分は自然科学分野の学者であるにすぎないにもかかわらず、受賞直後からは幼児教育分野だろうが政治経済分野だろうが「専門家」と目され、だれもが感心して耳を傾けてくれるようになるという。

この話を聞いて思い出すのが湯川秀樹博士である。

湯川は1949年、中間子の存在を理論的に予測した功績でノーベル物理学賞を受賞。

アジア人では3人目、日本では初の快挙だった。

サンフランシスコ講和条約締結の前だったこともあり、古橋廣之進の水泳の世界新記録と合わせて、敗戦で打ちひしがれていた日本人に勇気を与えた。 

ところが、湯川はノーベル賞受賞後、世界の反核運動、日本の原子力政策に深くコミットするようになり、自然科学者から文化人へと変わっていく。

核兵器廃絶・科学技術の平和利用を訴えたラッセル・アインシュタイン宣言への署名にとどまらず、1957年から開催されたパグウォッシュ会議へ参加もしている。

こうした湯川の行動は日本の自然科学関係者の間で神聖視され、「日本の科学者が守るべきリベラル的態度」を揺るぎないものにした。 物理や生物、工学などの分野の学者や技術者は、スポーツ選手に似た「徒弟制度」のような雰囲気の中で日々を過ごすため、「えらい先輩や受賞者」に対する尊敬の念は強い傾向がある。

その点、批判的な視野を持ち、ニヒルな雰囲気の中で育つ「文科系」の人たちとはかなり違うが、だからこそ、湯川の行動は神聖化されたといえよう。 

終戦後の国際的な平和運動の多くは冷戦の影響を受け、政治活動と同じ意味を持っていた。

先のパグウォッシュ会議も、ソ連の工作員とアメリカの諜報員の暗躍の場でもあった。

こうした観点から著者が強調したいのは、

①湯川は尊敬できる物理学者である

②彼が専門外の活動とは距離を置き、生涯を物理学研究に捧げてくれれば本当に良かった

③しかし、現実には一市民としてではなく、ノーベル賞受賞者として政治活動に従事した

④彼は政治分野では素人であった

⑤彼に影響された大多数の日本の科学者が間違った方向に進んだ

⑥その結果、科学の世界に政治介入を許した…ということである。 科学者が政治活動や社会活動に従事しても構わないが、その分野の専門家に勝る実力を身につけるか、自然科学の手法を用いるかのいずれかの条件をクリアする必要があろう。

湯川は基礎物理学に専念した結果、ノーベル賞に到達したが、歴史や文学に傾倒したわけではない。

京都大学の雰囲気に包まれ、思想的にリベラル化したにすぎない。

つまり、政治活動の先頭に立つだけの力はなかった。 

さらに、湯川の平和思想からは事実を積み重ねて、最終的な真実に近づくという自然科学の常道も割愛されていた。

「ノーベル賞を取った人物だから万能のはずだ」と持ち上げた社会のせいで湯川自身が錯覚したのか、あるいはノーベル賞にひれ伏す社会が湯川に利用されたとも考えられる。 

著者は京都大学基礎物理学研究所の湯川記念館で学術講演をしたことがある。

少し古風で小さな佇まいの記念館に入ると、同じ分野の研究者として身の引き締まる思いがした。

しかし、彼の専門外の活動はどうしても評価できない。

そして、「ノーベル賞万能社会」が自然科学者に与えた悪影響を考えると、結果的に彼がその黒幕となってしまったことは、残念というしかない。

コメントを残す

メールアドレスが公開されることはありません。

CAPTCHA