何しろ、私を含めた高山正之の読者ですら、本論文を読んだ後に「彼は凄い!」との感嘆の声を漏らす程だからである。

以下は、本日、発売された週刊新潮の掉尾を飾る高山正之の連載コラムからである。
芸術家の存在意義と役割の大きなものの一つに、隠された真実、隠れた真実に光を当てて、明らかにする、という点にある事に異議を唱える人はいないだろう。
韓国と中国が、世界で唯一、反日教育という名のナチズムを、前者は戦後から、後者は天安門事件以来、自分たちの政権維持のために、21世紀の今日に至るまで続けている事は周知の事実である。
国連が、この状態を放置している様は、世界の奇観、或いは、世界の欠陥そのものであるといっても全く過言ではない。
もし、世界が、日本人と同等の読み書き能力と、文章読解力を国民として持っているならば、そうして、上記の2国と、自分たちの国の過誤を覆い隠す為に、彼らに同調し、反日思想を持っている様な国民が、全くの少数派ならばと仮定して考えるならば。
ノーベル文学賞が、上記に定義した芸術の態様を最も良く体現している人間に与えられるものであるならば。
来年のノーベル文学賞が与えられるべき人間は、高山正之を措いて他にはいない。
本論文は、その事を実証している。
何しろ、私を含めた高山正之の読者ですら、本論文を読んだ後に「彼は凄い!」との感嘆の声を漏らす程だからである。

「黒地の絵」の裏
日本を空襲する拠点に米軍はサイパン、テニアンを選び、昭和19年6月、まずサイパンを攻めた。 
海兵隊の上陸前、1万㌧弱14万発の砲弾を撃ち込んだが、日本側は生きていて、かなり抵抗もあった。 
それでも2週間頑張るのが精一杯、島は制圧された。 
守備隊の一人、岡崎輝城は砲弾の破片を受けて昏倒。気が付いたときは米軍の医療施設に収容されていた。 
岡崎は米軍の上陸をつぶさに観察していて「最初の上陸部隊はみな黒人兵だった」ことに驚いた。
白人兵は勝負がついた10日目ごろ初めて見たと言う。 
サイパンが落ちて3ヵ月後。米海軍はペリリュー島を攻めた。 
サイパンでは米兵3500人が死んだ。今度はサイパンの10分の1の広さのペリリューに7万㌧もの砲弾をぶち込んだ。 
指揮官リュパータス少将は残存兵を一握りほどと見て「4日で平定」と言った。 
しかし日本の守備隊1万は元気で、上陸部隊を撥ね返し、抵抗は4日どころか2ヵ月も続いた。 
陥落後も34人がゲリラ活動を続けて戦後になって帰順している。 
彼らの証言が残る。
「初日だけで6波が上陸したが、みな黒人兵だった」 
白人様を守る黒人兵は一体いつ誕生したのか。 
初登場は奴隷解放から35年後。米国がキューバ解放を叫んだ米西戦争の折に第24歩兵連隊(3000人)など4つの黒人兵部隊の存在が公式に明らかにされた。 
初陣はキューバ解放を決めるサンファンヒルの戦いで、黒人部隊の奮迅の活躍によって米側が圧勝した。 
ただ手柄はご主人様のセオドア・ルーズべルトのものにされた。 
「強い黒人部隊」はすぐ次の任務に駆り出された。
まだ残るインディアンの残党狩りで、その強さから「バッファロー・ソルジャー」の二つ名も生まれた。 
それが済むと第24連隊はフィリピンに送られた。 
実は米国はキューバを囗実にスペイン領フィリピンを取るのが狙いだった。 
フィリピン人には「独立させる」とカラ証文を出して、スペイン軍を後ろから攻めさせた。 
おかげで戦争に勝つと米国は「お前らに自治は無理。米国の植民地になれ」と言い、アギナルド将軍と戦争状態に入った。 
第24連隊はマニラに入ると白人兵の前衛として逆らう者を殺していった。
サマール島、レイテ島はこのとき全島民が殺された。 
この伝統は日米戦争にも、戦後の朝鮮戦争にも引き継がれた。 
先日の朝日新聞のコラム「日曜に想う」が扱った小倉事件の背景にも同じ第24歩兵連隊が絡む。 
岐阜に駐屯していた同連隊は朝鮮戦争勃発の2週間後、小倉の城野基地に移駐を命じられた。
そこから船で釜山に送られる。 
城野基地に入っていた師団は一足先に朝鮮に行き全滅していた。
今度はペリリューより酷くなりそうなことをみんな知っていた。 
移駐して二日目。
街から祇園太鼓も聞こえてきた。
200人が誘われるように脱榾して街に乗り込んで酒を呷り、騒ぎ、女を漁った。 
清張の「黒地の絵」とは目の前で妻を犯す黒人兵の背中に彫られた鷲と女陰の入れ墨を指す。 
バラバラになった戦死体がだれのものか、それを伝えるために墨を入れるのだ。 
狼藉を働く武装脱走兵。
夜が明けるとMPがやってくる。
帰順するよう優しく説得して基地に連れ戻す。 
日本人に迷惑? 
それがどうした。 
彼らは戦場に行く使命がある。
こんなところで死なせないし、まして営倉など入れるものか。 
実際、事件から2日後、彼らは戦場に送られ、日を置かず全滅している。 
妻を犯された男は戦死体に死に化粧を施すバイトにつく。
そしてあの女陰の入れ墨に再会して、ナイフを何度も突き立てる。 
死に化粧は所沢基地でもどこでもやっていた。
むしろ奇跡の再会だった。 
日本人の知らない「戦場のジム・クロウ法」が背景にある。
コラムはそこをすっぽり外している。


2024/6/12 in Kanazawa

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