川端康成の美意識⑤――無比の眼力が「異端」にも注がれた、最期の部屋の二枚の絵と日本の美
2011-6-5無比の眼力、「異端」にも注ぐ 最期に見た絵の暗い情熱…日経新聞17面、美の美から。
川端が逗子マリーナの仕事部屋でガス自殺したとの一報が新聞社に飛び込んだのは、1972年4月16日深夜、最終版の締め切り直前だった。
4月に入社し、紙面をつくる整理部で見習いをしていた筆者は、編集局全体がどよめき、騒然としたのをよく覚えている。日本人初のノーベル賞作家の自殺は、まさに寝耳に水だった。
原稿や写真が大量に入稿してきた。死因はガス中毒死、死亡推定時刻は午後6時ごろ、遺体に乱れはない、ガス管を口にくわえていた、遺書はない・…=。翌日の朝刊各紙に「栄光の作家の悲痛な死」「幽玄の世界へ消えた巨星」「『美しい日本の私』が、なぜ?」「日本の魂を失った」などの見出しが躍った。
このページの、ニューカレドニアの画家、ジェムマニックの「火炎木」と村上肥出夫の「キャナル・グランデ」は、亡くなった部屋にかけてあった絵だ。発見者は川端コレクションの展覧会プロデューサーを務める水原園博氏。2005年2月に番組をつくるために制作スタッフと一緒に死後使われていなかった部屋に人って発見した。
「雨の降る寒い日で、部屋にはよどんだや気がたちこめていた。『火炎木』はガラスの表面を黴が被い、絵の具はひびわれていた。『キャナル・グランデ」は絵の具を厚塗りしているために、両布が巾さに耐えかねてたわんでいた。
ともに、これまでのコレクションとは異なる系譜の作品。どうして先生が知らない画家の絵を飾っていたのか、不思議だった」。川端がこの2作品を購入したのは、死の半年前のことだった。
うち「キャナル・グランデ」を描いた村上は1933年(昭和8年)岐阜県生まれ。幼少からゴッホに憧れ、独学で油絵を学ぶ。日雇いの仕事をしながら放浪の生活を続け、東京の銀座で絵を並べていたのを、61年(昭和36年)通りがかった彫刻家の本郷新が目にとめ、銀座の兜屋画廊の知遇と援助を得るようになり、「日本のゴッホ」と注目された。
川端の日記によると、63年に村上の初の個展を見てすっかりファンとなったようだ。村上はその後渡欧して絵を描く。
川端は死ぬ1年前に、東京・銀座松坂屋で開かれた村上の新作展のカタログに文を寄せていた。
「村上氏の富士は、たとえば林武氏の富士ではなく、やはり個性いちじるしい富士である。(中略)私は富士の前に、今回の滞欧作ベニス、ナポリを予約し、前に裏目本の暗い夕波、あざやかな水仙の小品などを所蔵している。海の絵など、来客はとにかく打れて惹かれる。そして村上氏という画家を知る人は少いので、私は話させられる」
べニスを描いた「キャナル・グランデ」は、ゴッホの絵のように暗く情熱的で、窓外の湘南の光る海とは対照的だ。部屋には、生と死、此岸と彼岸が隣り合わせていたように思える。
川端が本当に自殺を図ったのか、という疑問もわこう。当時、日本ペンクラブ会長だった芹沢光治良のように「睡眠薬を飲んで過失死した」と推測した人も多かったからだ。
この連載で、川端には「死への憧れ」があったと指摘してきた。さらに晩年は多忙を極め、疲れ切っていたらしい。また1年半前に、「年少の無二の師友」だった三島由紀夫が割腹自殺した衝撃も、死の引き金になったと考えられる。
いずれにせよ、覚悟の死ならば作家らしい。直後に作家の林房雄が「年をとると、普通は自殺する勇気もなくなる。川端さんの72歳の自殺は勇気あるものだ。やっぱり川端さんは強かったと思う」と語っていたのが印象深かった。
東山魁夷は川端を追悼した「新潮」72年6月増刊号「川端康成読本」に名文を寄せた。
「敗戦直後、『日本の美の伝統を継ごう』との自覚と願望を固めた先生、心友横光利一の死別に際しても、『僕は日本の山河を魂として君の後を生きてゆく』と、決然と云われた先生は、その自覚と願望を果たし、その言葉の通りに歩み通された。(中略)なんと、充実した生であったことか。(中略)先生の死は、安らかな休息とのみ考えたい」 (「星離れ行き」)
このページの「埴輪 乙女頭部」と次の川端の文章を見てほしい。
「ほのぼのとまどかに愛らしい。均整、優美の愛らしさでは、埴輪のなかでも出色である。この埴輪の首を見ていて、私は日本の女の魂を呼吸する。日本の女の根源、本来を感じる。ありがたい(中略)とにかく、目本の女の魂の原初の姿である。知識も理屈もなく、私はただ見ている」
なんと見事な日本語だろう。言葉が輝いていて、ひとりでに口ずさんでしまうようだ。川端はまれにみる優れた才能をもち、前衛と伝統の両面から日本の美」を全力で追求し、充実した生をおくったのだ。
文・浦田憲治
*先週から今週にかけての、このシリーズは、昨今の新聞界で圧倒的に素晴らしい記事だったと私は思う。