そんなものを不磨の大典と崇めるのは、活字という物にたいするフェティシズム(物神崇拝)という病理以外の何物でもない。
その前に、「民兵のゲリラ戦では自国を守れない」、「ガンディ流の非暴力不服従をつらぬくのは無理である」そして
2018年06月09日
以下は前章の続きである。
この章こそはと言うべきであろう、日本国民全員、特に新潟県民必読の章である。
立憲主義-現憲法は法に非ず
自衛隊という交戦可能な戦力は文句なしに現憲法の九条第二項(非武装・不交戦)に違反している。
その存在を93%も肯定しつつ、その条項の改正に70%が反対しているというような国民は、統合失調でないとしたら痴呆症を病んでいる。
甘くみても無思考の悪癖に染まっている。
立憲主義なる埃だらけの用語が明治・大正の用語集の古倉庫から(自衛隊の海外派兵を阻止するために)取り出されている。
だが、「悪法は法に非ず」とみなして「良い憲法を作ろう」という姿勢がないばかりか、「悪い憲法にしがみつこう」などという立憲主義の合唱は聞けた代物ではない。
まず、わざわざ改憲しなくても、既存の憲法文章を(日本の伝統精神に根差す)良識にもとづいて解釈し直すこと、次にそれですまないようなら、そんな文章は死文として無視するか反故として打ち捨てればよいのである。
そもそも現憲法の文章なんか、特定の時期(米軍の日本占領初期の硝煙消えやらぬ時期)に特定の能力しか持たない人間たち(米軍の公法について何の見識もない若い軍人たち)が特定の事情(日本のアメリカヘの属国化)の下に特定の目論見(非武装世界の実現という夢想)に駆られて特定の期間(六日間程度)で特定の思想(ニューディーラーというソフト・ソーシャリズム)の持ち主が書き散らかしたものを二日二晩で急いで翻訳した代物にすぎない。
そんなものを不磨の大典と崇めるのは、活字という物にたいするフェティシズム(物神崇拝)という病理以外の何物でもない。
「主権国家には自然権として自衛権あり」との理由づけで自衛隊を弁護するのも間違いだ。
その前に、「民兵のゲリラ戦では自国を守れない」、「ガンディ流の非暴力不服従をつらぬくのは無理である」そして「国家主権をみずから進んで放棄して他国の保護領となる道には、国家の恥辱であるからには、入れない」とみなすのでなければ自衛隊という名の政府軍を正当化することはできない。
そればかりか、九条第二項の「前項(侵略の禁止)の目的を達するため」という限定句が笑止千万の文章である。
「侵略をしないでおくために非武装・不交戦」というのは、次の二つのいずれか(あるいは両方)をしか意味しない。
一つは「日本人は大馬鹿なので侵略と自衛の区別がまったくできない」、二つは「日本人は野蛮きわまるのでかならずや自衛を口実に侵略をやる」ということである。
百歩下がって、その通りだとしても、そんなことを明文にして国家の表玄関に掲げて立国するのは、日本人の恥さらしであるだけでなく、国際社会にとって迷惑である。
むろん、自衛と侵略の区別が難しいことは認めなければならない。
しかし、今度のイギリスにおける(米英のイラク攻撃にかんする)自己批判報告がそうであるように、「よく調べれば侵略と自衛の区別は可能である」。
またそれを可能としなければ、世界は単なる「弱肉強食のジャングル」となる。
国際関係が「社会性」を失って国際社会が消失してしまうということだ。
憲法段階で「侵略は駄目だが自衛は結構」としておき、そして自衛のための「海外派兵」が必要かどうかなんかは国際情勢の如何による、とみる常識に立ち戻ればよいのである。
この稿続く。
2022/6/28 in Kyoto