自分の国で奴隷にされるのはやるせない。それで漢人の卑屈で残忍で嘘を恐れない民族性が生まれたという分析もある。
自分の国で奴隷にされるのはやるせない。それで漢人の卑屈で残忍で嘘を恐れない民族性が生まれたという分析もある。
2021年12月10日
以下は昨日発売された週刊新潮の掉尾を飾る高山正之の連載コラムからである。
本論文も彼が戦後の世界で唯一無二のジャーナリストである事を証明している。
日本国民のみならず世界中の人達が必読。
地面師Xi
習近平はよく「偉大な中華民族の復興」と言う。
中華とはイタ飯とかフレンチとか料理の名だと思っていた。
民族の名だとは知らなかった。
それも支那にさいた文化すべてを生んだ民族という。
それも初耳だ。
支那の歴史は万里の長城が見守ってきた。
その内側、中原に漢民族が住み、そこへ長城を越えてきた夷狄が王朝を建てるというのが形だ。
で、北狄が殷を、西戎が周を、東夷が秦を建て、華麗な青銅器文明、鉄器文明を生みだした。
その後も鮮卑やモンゴルがやってきた。
その間、中原の漢民族は外来王朝の下でずっと奴隷の身分にあった。
自分の国で奴隷にされるのはやるせない。
それで漢人の卑屈で残忍で嘘を恐れない民族性が生まれたという分析もある。
歴史には夷狄が来なかった空白期がある。
そんな隙間に漢民族がこっそり国を建てたこともあった。
紀元前2世紀の漢がそれだ。
それが嬉しかったのか彼らは以来、その王朝名漢を民族名にしてきた。
ただ根が奴隷だから漢の治世は猜疑心と物欲で混乱した。
民はこのときほど早く夷狄が来ないかと待ち焦がれたことはなかった。
その後は幸せな夷狄支配が戻るが、1300年後に再び悪夢の漢民族王朝の明か建ち、さらに600年後に今の中共が建った。
中共は漢民族政権の中でも群を抜く。
大躍進と文革ですでに5000万人を殺し、今も上積みに勤しんでいる。
こうやって歴史を振り返ってもどこにも「偉大な中華民族」は出てこない。
「いやいや、そうじゃない」と習近平は言う。
漢民族とか西戎とかはもう大昔に相互に溶けあった。
今は多くの民族が混淆した中華民族がいるだけなのだとおっしゃる。
お言葉だが、漢民族が大昔に消えたという説には素直に頷けない。
例えば五胡十六国時代には漢民族ははっきりいた。
北から来た女真族とかは礼を失した者や粗野な振る舞いを見ると「まるで漢人みたい」と非難した。
そこから悪漢、痴漢、無頼漢とかの言葉が生まれた。
それは今の支那人にもそのままあてはまらないか。
満洲族の清が支配したときも漢人はいた。
彼らは髪を伸ばし放題にする。
それでこざっぱりした辮髪にさせた。
拒む者は首を刎ね、漢人は少し減った。
阿片戦争時、漢民族は英軍についた。
旗印は「滅満興漢」だった。
満人を倒して漢人の国を取り戻そうという意味だ。
日本人は日清戦争で初めて生の漢人の群を見た。
「敵(漢人)は古より残忍の性を有す」「生擒に遭わば(生きてだまると)酷虐にして死に勝る苦痛(性器を切り、耳鼻を削ぎ、目を抉る)を受け、ついには耽賊(手足を切断)せらる」と山縣有朋は訓示した。
西太后は日清戦争に敗れた後、その反省から科挙の制をやめて海外留学を官僚の登竜門とした。
第1号は科挙をトップ合格した汪兆銘で、戦争に負けた日本へ留学させた。
西太后の大きさが伝わるが、彼女の評判は悪い。
北洋艦隊の戦費を流用したとか、ライバルの寵姫、麗妃を生きたまま手足を切って壺に入れたとか。
それは漢の劉邦の妻、呂后がやったことだ。
北洋艦隊も日本艦隊の倍の装備と戦闘艦を与えられていた。
負けたのは漢人将兵が逃げ回ったからだ。
彼らは責任の擦り付けや誹謗中傷が抜群にうまい。
それは西太后の時代まで漢民族が元気に存在したことの証になる。
習近平の「漢民族は大昔に消えた」説にはそういうわけで何の根拠もない。
傲慢で残忍な今の中共の振る舞いも「いつも元気だ漢民族」と言っているようにしか見えない。
では彼はなぜ「漢民族」を消して架空の「中華民族」を創り出したのか。
そうすれば中共がウイグルもチベットも自国領と主張できるからか。
習は皇帝としても地面師としても一流とは言い難い。