検察・メディア・政治の均衡は崩壊した――「国民の目線」を隠れ蓑にした異常捜査と報道の罪

2010-10-2

以下の文章は週刊朝日2009年5月15日号のものです。

このことが指し示している事は、この記事を読まなかった国民は、今回の小沢一郎氏への弾圧に続く流れの共犯者となっていたのだと言う事…NHKのニュースが、どんなに酷いものであるか…勿論、他のテレビや大新聞の論説委員達も全く同罪ですが…僕は、読者の皆様がた全員に、NHKのホームページから報道部門へ、私が太字化した部分をコピーして頂いて、意見としてメールして頂きたいと思う…各局全てに対してして頂ければ一番ですが…。

僕が、伊達に週刊朝日を読むべしと言っていたのではない事が心底分って頂けると思う。

 更に、僕が書き続けていて気付いた事を、警句的に書きます。
 田中角栄は政治の世界に於ける長嶋茂雄クラスの天才だったのではないか…
一方、実は、東大出だと言うことだけが取り柄だった様な男が、自分の出世の為に悪魔と取引して虚飾の名誉を勝ち得た…
その結果が、国に与えた損失が、上下900兆円だったのではないかと僕は思う。

実質的には高等小学校出だと自らも言っていた田中角栄に対する、東大に代表される権威主義者たちが心情的にも加担した結果が、「日本の失われた20年」阿呆の極みの様なテレビ、この有様に繋がっていたのではないかと僕は思う。

中略。

さて、それでは2009年5月15日号、週刊朝日から、皆様方に重要な文章を贈ります…今日は、特に時宜にも適っているはすです。

 起訴から1ヵ月以上たち、あれだけ激しかった「西松建設事件」の報道はほとんど見ることがなくなった。
振り返れば、この間、マスコミは報道機関として何をしたのか。
単に〝劣化”した検察に追従しただけだったのではないか。
元検事の郷原信郎氏とジャーナリスト・魚住昭氏が、一連のマスコミ報道を徹底検証した。

魚住 
皮肉っぽく言えば、各全国紙を見ていて、今回の「西松建設事件」を巡る報道は、従来の検察報道に比べればかなりマシだとも言えるんですよね。

例えば、小沢一郎・民主党代表の第1秘書、大久保隆規被告が起訴された際、毎日新聞(3月25日付朝刊)は社会部長名で「検察は説明責任果たせ」とのタイトルで解説を載せました。
これは、なぜ総選挙間近のこの時期に、この程度の容疑で野党第1党代表の側近を立件したのか、と強く疑問を投げかける記事でした。
僕の知る限り、大新聞がここまで検察を面と向かって批判することは、これまではなかったことです。  

一連のマスコミ報道を見ると、もちろん全体的には検察主導の報道合戦がずっと続いたわけですが、この毎日新聞を筆頭に、各紙が一定の検察批判をせざるを得なかったのは、それほど捜査が異様だったということでしょう。

 郷原 
今回の事件は、これまでの特捜事件とはまったく違う、“異常”な捜査だと思います。
その異常性からすると大手新聞やテレビの検察批判は、全然足りない。  

結局、基本的にはこれまでと同様、検察の意向に沿った報道でした。
それは、日本という国が実は、物凄く遅れた国だということで、暗澹たる思いです。
日本は近代国家・法治国家だと思っていましたが、実は違ったのです。
 

今回の検察の政治への介入に対しては、憲法上の三権分立(立法・行政・司法)とは違った意味で、政治・メディア・検察の三つの権力がお互いに均衡関係を保つことが必要なのに、今回、メディアも政治も司法に対してまったく「抑制作用」を果たすことができないことがわかったのです。

魚住 
先日、霞が関の道ばたで元検察高官とばったり会ったのですが。 
「今回の検察のやり方はヒドいじゃないですか?」と言ったら、「そんなことはない。『国民の目線』で捜査をしなきゃいけないんだ」と答えた。
「なるほどね」と思いましたよ。

恐らく、樋渡利秋検事総長以下、特捜の現場の検事をみんな、そう思っていることでしょう。
内心では摘発のための“ハードル”を大きく下げたとわかっていながら、われわれは「国民の目線」で必要なことをしているのだ…という論理です。

でも、その言葉のウラには、彼らの密かな欲求が隠されている。
一つは、検事たちの目立ちたいという個人的な欲求。
もう一つが、摘発のハードルを極めて低くすることによって、検察の威信、検察の政治権力に対する影響力を増大させたいという組織的な欲求です。
彼らは「国民の目線」という言葉で、これらの欲求を覆い隠しているんです。

郷原 
これまでを検察の中では、小さな政治資金規正法違反事件などでも違法は違法なんだから片っ端から捕まえてしまえばいい…と思っていた人間はいたでしょう。
でも、検察内でゴーサインが出なかった。
なぜかというと、世の中がそれを許さないと思っていたからなんですね。  

今回の事件は、そもそも政治資金規正法違反ではない、単なる捜査の“やり損ない”だったと思います。
しかし、それでも、多少の批判はあっても、メディアは基本的に検察側についた。
これは、検察にとって「うれしい誤算」だったのでしょう
。

 魚住 
僕もかつて検察担当記者をやっていたから、記者の気持ちはある程度わかるんですが、“まっとうな感覚”というのは、検察担当の記者になった途端、ほとんど消えちゃうんですよね。
簡単に言うと。 「ネタ」を取りたい、「特オチ(自社だけネタを落とすこと。特ダネの反意語)」は避けたいという気持ちで、ただひたすら当局からネタを取ることに全神経を集中させますから、ほかの神経はなくなってしまう。
だから一般の人たちから見たら、非常におかしな論理がまかり通ってしまうのです。

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