「文明のターンテーブル」第1章総括:前代未聞の行動と「魂の仕事」としてのエクリチュール

「文明のターンテーブル」第1章を総括。平成2年の総量規制下での意見広告、独自文体の完成、言葉と魂の関係を振り返りつつ、第2章へと続く展望を語る。
筆者の書籍『文明のターンテーブル』第1章の総括と、第2章への移行について考察します。平成2年の「総量規制」時に行った1000万円の意見広告という前代未聞の行動から、自身の「文体」の確立、そして真実を追求する「エクリチュール(表現)」が「魂の仕事」であるという哲学までを詳述。ネットから書籍へと舞台を移す、21世紀の思索の深まりを提示します。

「文明のターンテーブル」第1章の総括と、第二章への移行について。

2010/12/24

「文明のターンテーブル」第1章は、かつて、私が従事して来たビジネスが、平成2年4月1日の総量規制以降の激変に依る、悪影響をもろに受けて厳しい経営状況にさしかかっていながら…スーパー重課税を糾す為に…前代未聞の形で…1,000万円の広告費を掛けて、東京都内日経新聞購読全世帯に、折込、意見広告して、願い通り、この悪税を直したように。

…これは前代未聞の広告だったはず…何故なら、それこそが、私の中に受け継がれていた、バンカラの系譜のようなもので…否(いな)、この総量規制以降に、実質的には、寒士となっていたから、為したものだともいえる…エリートとしての安泰の中に居る者は、上げるべき声をあげないのが、世の習わしなのだから…。

或いは、7年前、大阪府下の日経新聞購読世帯に、打った折込・意見広告が、大阪の心臓部に、間違いなく届いた様に。…この時に、私の文体も完成したことは、既述した通りですが。

第1章は、間違いなく、日本の中枢に届いた事を、私は確信している。

例えば、マスメディアに対する私の論は、かつて、誰一人として、為しては来なかったはずです。

深く、静かに、私の言葉は、私たちの国に、届いていると確信しています。

PCが生まれて30年、世界は、インターネットなしには動かない…決してPC技術堪能者ではない私が、7月16日に、思い余って、ネットで書き出したのは、私は、かつての、例えば、文豪たちのように、自筆で書くのが嫌な人間だったのですが、キーボードとの出会いで、これこそ、私のための道具…そして私の文体が完成した…この明瞭な字…誰もが読めるこの、共通の文字…日本語であれ、英語であれ…僕は、書体なんぞには、実は、大した価値は認めていない…言葉は、そこに真実があるかどうかだけ。

幸せな生活を送り、書道の心得もたしなみ…云々…それもまた、極論すれば、唾棄すべき、所謂、インテリの悪だと言っても良いとさへ思う。

800年代の人間であったら…それしか、書かれた言葉としての伝達の手段はなかった訳ですから、空海の様に、書に於いても達人であるに、越したことはないのですが。

今は、21世紀…21世紀の思索をもっているかどうかだけが、問題であって、書なぞは何の問題でも無い。

絵画的に言うならば、私の写真、或いは、素晴らしいアメリカ映画のカメラワークというか、フレーム…前述のターシャさんを撮った監督及びカメラマンのたちの作品の様な、世界には、無数に有る、本来のテレビドキュメンタリー等の方が、遥かに上なのですから。

正しいブラインドタッチで打たない私には、定期的に、手首の腱鞘炎をもたらしますが。

もし、私が、パソコンについて、知識の全てを持っている人間だったら…20世紀には有り得なかった…21世紀最高の、前代未聞の、1ジャンルを、明日にでも、切り開いています。

私は、本を買って読んでいただく読者に対して、買って頂く値打ちのある思索…言葉の数々を、書き続けることを、お約束しますし、第二章は、その様な、本の形としてしか、書けない内容を持つものなのです。

不特定多数に、ただ、書き続けることは出来ないことが、書くということ、エクリチュール(表現すること)には、あるのです。エクリチュールは、話し言葉では有り得ないのですから。

何故?…それは魂だからです。私の写真も私の魂であるように。

人生と言う…限りある…たった一度きりのいのちであることが宿命の…

時間をかけた仕事だからです。

竜安寺に行って、銀閣寺に行って、詩仙堂に、枳穀邸に、嵐山にいって、それらの全てを観尽くして来るような人間が、この40年間、日本と世界を見尽くしていなかった訳はないのです。

どうぞ、私の「文明のターンテーブル」第二章…出版元、まぐまぐ…を、ご愛顧下さい。

写真に付いて言えば、日本は、冬に向かうこともあり、つい、この間…私が、ほんとうに愛したハワイの写真を撮りたいな…何故?私が、そんなにもハワイを愛したのか…私にしか撮れない写真を撮り尽くしたい想いが、突然、やってきたのですが。

今の季節に、行っても、高いしなぁという、貧乏暮らしゆえ、ほぞを噛んで断念…冬の京都で、今まで、見た事のない何かを見つけられたら幸いなのだが…モノトーンの世界は、あまり好きではないのだがなぁ、と、少しばかり、溜息をついています。

もし、冬の京都に見るべきものがなかったら…その時は、素晴らしい映画を観たり、くりきんとさんの、良い笑顔…彼女は、ほんとうに、善き人そのもの様な笑顔の持ち主なのです…を見て年末年始を過ごそう、と。(笑)

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