二条城での対話、母への祈りと空海の洞窟

2011年3月14日、筆者は二条城で母と心の対話を重ね、写真に映り込んだ不思議な影を通して自然との感応を語る。
空海が洞窟で空と海を見た逸話と重ね、芸術論や生命の祈りを展開する。

2011年3月14日の記事。著者は、震災で利益を得た人々への批判から始まり、二条城で撮影した写真に映り込んだ不思議な現象について語ります。
この体験を、自身が持つ宮沢賢治にも通じる強い自然への感応力と結びつけ、南禅寺天授庵での鯉との交流など、他の場所での神秘的な経験にも触れています。
記事後半では、空海が悟りを開いたという逸話を紹介し、自らの芸術観や人生観が、空海のような深い精神性と繋がっていることを示唆しています

3月11日の地震発生と同時に空売りをかけてぼろ儲けしたような連中は
2011/3/14

その儲けの半分を被災者たちに寄付すべきだろうよ。

読者の方は既にお気づきかも知れないが、昨日、私は、予定通り向かった二条城で
読者の方は既にお気づきかも知れないが、昨日、私は、予定通り向かった二条城で、ただひたすら自分の母親と対話していたのでした。
生きていてくれることを祈ってはいるけれど、10%の覚悟も持ちながら3月11日以来、過ごしていた訳ですが。
帰宅して写真を取り込んでPMBでそのままスライドショーにして見た時に、胸がつまりました。
全ての写真が、その通りだったから。

トルストイが、「アンナ・カレーニナ」、の冒頭で書いた通り、「幸福な家庭はみな似たりよったりだが、不幸な家庭は様々である」。
私の人生が世間的に言えば全く幸福ではなかった様に、当然ながら、母親の人生も全く幸福なものではなかった。
いずれ、そのことはメルマガに書きますが

今しがた、仕事が一段落した後に、昨夜掲載した写真を見て驚いた。
23:03分.20秒に投稿した写真の中に奇妙なものが映っているのです…
画面右端の一番前の石橋の所です。
この時、なにかごみが飛んで来るような風は吹いていなかったのに…
あんまり考えると妙な事に成りますから。
ただ言える事は、私の写真をご覧頂いて来た方は、お分かりだと思いますが…私は、宮沢賢治に負けないほどの、極めて強い自然に対する感応力も授かっている人間ではあるのです…
このことは、いずれ掲載する、今年1月29日に永観堂の後に訪れた、南禅寺・天授庵…此処は本当に素晴らしい所…♪How fair this spot♪By サラ・ブライトマン…なのですが…
此処の鯉たちは、どう考えても、何度見ても、あの日、私と交感していたとしか思えないのです。
私が何事か感応した場所に、必然の様に、鳥や鯉が現れるのは偶然ではないと私は思っているのです。…
他の誰とも違う摩訶不思議な何かを発散している私に、彼らが反応するのだ…
私は、そう感じているのです。…
まぁ、普通に考えても、日本有数の名所・旧跡に行って、長時間、鯉や鳥たちの写真を撮っている人間も、そうはいない訳で。

未だに全く掲載していない修学院離宮などは、鳥捕りの親方に逢いに行った様なものですから。…
桂離宮や修学院離宮に行った事のある人で写真を撮られる方はご存知かと思いますが、自分の心が感応したら、納得するまで、その場で写真を撮り続ける私には地獄の様な場所…
既述したように、様々な形で200億円超の納税を果たした仕事を為し、今は、こうして21世紀を確立する文章を書き続けている私も、まるで、そこらの変なおっさんか…まぁ、そうかもしれませんが…小学生扱い。
「あなた、さっきから何度か遅れてますよ。1度目じゃないですよ」、等と、後ろを付いてくる係員に2度ほど注意を受けた時には、写真を撮る気も失せた…
前と後ろをサンドイッチして案内されるのです…前の人は説明係…そもそも、あんな形で物をみて、正法眼蔵なぞ起きる訳もない…後略。

…皆様方が、腰を抜かすような、私の芸術論に発展して行く文章は、4月19日以降のメルマガでご購読下さい。

洞窟の中で空海が目にしていたのは空と海だけであったため、空海と名乗った
前章の写真の事を、昨日、同行してくれた専務に話したところ、「あれぇ、ここには確か、鴨がうずくまっていたはず…」。確かに、此処の岩陰には鴨がこちらに背を向けて、じっとうずくまっていたのです。
私は、家康殿との会話口調で、「見てみぃ、鴨も今回の天災地変を悲しみ、じっとうずくまっておるぞ」、と話したのですから。

その鴨が写っていず、この奇妙な物が映っている訳です…そばで一緒に、この写真を見ていた専務は、「お坊さんが袈裟を着て手を合わせている様に見える…」

自席に戻った専務が…「洞窟で悟りを開いた空海が見ていたものは、空と海だった…」と言った。…と。

仏道修行…ウィキペディアより。黒字強調は私
延暦12年(793年)、大学での勉学に飽き足らず、19歳を過ぎた頃から山林での修行に入ったという。
24歳で儒教・道教・仏教の比較思想論でもある『聾瞽指帰(ろうごしいき)』を著して俗世の教えが真実でないことを示した(「聾瞽指帰」は、後に序文と巻末の十韻詩を改定、『三教指帰』(さんごうしいき)と改題されている)。
この時期より入唐までの空海の足取りは資料が少なく断片的で不明な点が多い。
しかし吉野の金峰山や四国の石鎚山などで山林修行を重ねると共に、幅広く仏教思想を学んだことは想像に難くない。
『大日経』を初めとする密教経典に出会ったのもこの頃と考えられている。さらに中国語や梵字・悉曇などにも手を伸ばした形跡もある。
ところでこの時期、一沙門より「虚空蔵求聞持法」を授かったことはよく知られるところである。
『三教指帰』の序文には、空海が阿波の大瀧岳や土佐の室戸岬などで求聞持法を修ましたことが記され、とくに室戸岬の御厨人窟(みくろど)で修行をしているとき、口に明星が飛び込んできたと記されている。
このとき空海は悟りを開いたといわれ、当時の御厨人窟は海岸線が今よりも上にあり、洞窟の中で空海が目にしていたのは空と海だけであったため、空海と名乗ったと伝わっている。…
後略。

コメントを残す

メールアドレスが公開されることはありません。

CAPTCHA