2011年3月16日 ― 小倉千加子の眼、人とメディア、そして「母を語る」開始

2011年3月16日。筆者は小倉千加子の連載から、宮中での菅伸子による小沢一郎の印象を引用し、テレビと新聞の在り方を批判。新たにFC2で有料ブログを開設し、二条城の写真と「母を語る」シリーズを始める決意を語る。津波で亡くなった母の火葬(21日)に寄せる想いと、親友からの言葉「母の分まで世のため人のために生きよう」に共鳴する。

2011年3月16日、筆者は心理学者・小倉千加子氏のコラムを引用し、日本の主要メディアの信頼性に疑問を呈する。菅直人首相の妻・伸子氏が小沢一郎氏を「台風の眼」と評したエピソードを紹介し、政治家の本質を探る。また、東日本大震災で母を亡くした自身の心境を吐露し、悲しみの中にも、亡くなった人々のためにも「世のため人のため」に生きる決意を語る。

小倉千加子さんが当代きっての人物の一人であることは論を待たない。
2011/3/16

あの人について、小倉さんが、今、週刊朝日連載しているコラム「週刊朝日2011年3月18日号、54P、お代は見てのお帰りに」にから抜粋します。
何度も言いますが発行部数29万部…皆さまが、これまで何の疑いも持たず見て来た、つい、この間までの痴呆テレビ…3月11日以降は、そうではなくなる…映像とは、しょうもない芸人やタレントの顔を、テレビを意識した様な政治家を写すものではない事を身に沁みて認識したはずだから、
少しづつでも…本当は一気にそうな成らなければ21世紀のメディアだなどとは、とても言えないのだが…変わって行くはずだ…テレビは全国民が見ている…。
常に真実を伝えるどころか、とんでもない権力追従、あるいは、へちまの意見を思索なしに載せる事が多々あり、多くの国民を誤らせてきた新聞は、各紙、数百万人が読んでいる…週刊朝日は29万部であると…。
真実の確率は、それほど低い事に気づくべし、と言う意味で繰り返す。
それでは、小倉さんの労作を、どうぞ…。
菅伸子さんが小沢一郎を初めて近くで見たのは今から18年前、皇居の中でのことである。
「私が小沢さんと最初に会ったーというより、近くで見たのは、皇太子殿下の御成婚の祝賀の宴の時でした。国会議員は夫婦で全員が招待されたので、出かけました。あれは1993年の6月で、宮沢内閣の不信任決議案が可決され、解散になる直前でした」
…中略。
8月9日、細川内閣が成立。
自民党vs.社会党の55年体制が壊れたのはこの時なのである。
皇太子ご成婚の祝賀の宴に菅伸子さんが出席したのは、宮沢内閣不信任案が提出されて解散になる直前、新生党や新党さきがけができる直前のことである。
伸子さんは皇居の中で見たことをこう記している。
「議員たちはみな選挙だというので興奮していました。そんななか、皇居の中庭を、ひとりでじっと見つめている人がいて、それが小沢一郎さんでした。
その頃は面識もなかったので、声をかけませんでしたが、大興奮して騒然としているなか、小沢さんのいるところだけが静寂でした。台風の眼というのは、ああいうものなのでしょう」
中略
「私は小沢さんにアレルギーはなかった」と書く伸子さんは皇居で小沢一郎を見た時、夫と比較する心が湧いただろう。
そして、夫が総理大臣になった時の感想である。
「『この人が総理大臣でよいのだろうか』と、よく知っているだけに思ってしまう」
(この項続く)

読者と作家、という形で開陳するしかないな(笑)と思っていた…。
今日、PC関連の仕事をしている若く有能にして、decencyが表情に現れている方に、商談の後に、FC2のサイトで課金ブログを設定して頂いた。
明日にでも、3月13日に訪れた二条城の写真と、私の文章を投稿しようと思っているのです。…誰の心にでも在る永遠の感情が横溢した文章と写真になってしまうので、
読者と作家、という形で開陳するしかないな(笑)と思っていた。
まぐまぐのメルマガには写真は添付できないのですが、FC2は当然ながら出来て、そのまま有料メルマガに出来る優れたサイト。
ここに、「母親を語る」という、多分、これから…折々の、至る所で対話する事になる…
私の作品群の中で、皆さまの誰もが持つものと同じ…人間が永遠に持つナイーブでエモーショナルな作品を、私は、明日以降に作り続けて行く事になるのだと思う。
読者の方は、既に御存じの様に、私の母親は、何とか助かっていてほしいとの願いと祈りも叶わず、多くの方と同様に大津波に巻き込まれて死んでしまった
21日に火葬すると、今日、妹が電話を寄こしたのですが、彼女も、読者の方も御存じの事情で…私は、この日は帰省しない…
京都の何処か、私と母親に一番相応しい場所に、二人で居る。

明日にでもFC2に書きあげましたら御通知しますので、どうぞ読んでみて下さい。
一昨日、私が社会に出てからの一生の親友であり、まさに、私たちの国の宝物として、見事な有能さと公平無私の心を持って仕事を続けられている商社マンの方から、お心遣いのメールを頂いたので…。
昨日、当方の願いも叶わず、死亡が確認された事をお伝えしたのですが、その時に、…そう言えば、だいぶ前に、彼と商用で仙台を訪れた時に、実家に依って、大皿一杯の、日本一の赤貝を振舞ってくれた、
今は、年老いた母に逢ったのが、母親の顔を見た最後だったことを、突然思い出し、御礼の言葉に添えてメールしたのでした。

返信の中で…親友と言うものの有り難さが心に沁みた文の後に、彼が言ってくれた言葉は、私の心そのものでもあります。
…お互い母親の分まで、世のため人のために精一杯がんばって生きて行きましょう。…

今、実に多くの人たちが同じ思いでいるのだと私は思う。

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