2011/6/4…今朝の朝日の論説員たちに~実存主義の歌姫降臨 ジュリエット・グレコ「パリの空の下」 今朝の朝日Beから~「パリの空の下」(中村敬子訳)

2011/6/4…今朝の朝日の論説員たちに。
(文中敬称略)
自分たちが為して来た事に対する反省は常にない、100年一日の如くな高説を述べる前に、
星よ、若宮よ、菅直人がアレバ社=サルコジと、あのような形のドタバタ…言わば、双方の思惑だけの火事場泥棒と言っても過言ではあるまい…劇で為された、フクシマ汚染水処理施設を一体、幾らで受注したのか、即刻、国民に伝えよ!
それこそがジャーナリストの仕事であろう。
ましてや、富山大学の学者と日本のメーカーが実証したプラントの方が遥かに効率が良く、価格も段違いに安い事は、もはや衆知の事実なのだから。

実存主義の歌姫降臨 ジュリエット・グレコ「パリの空の下」 今朝の朝日Beから。
この様な記事を書く朝日と、60数年前も今も国を誤らせ続けて来た高説を垂れる論説員たち…日本の全てのマスコミの縮図だろうが…どちらの為に、私が朝日を40年も読み続けて来たのかは言うまでもない。

優美な命を吹きこまれた暗黒の夜が、おごそかに捧げ持つ深紅のバラは、鮮血に浸されたかのようにみずみずしかった。
古びた石造りのビルの地下にあった劇場で目の当たりにしたその光景はしかし、幻影ではなかった。一輪のバラを手にした黒ずくめの衣装の女が、地の底へ吸いこまれるような低いつぶやき声で歌っていたのだ。
いまは東京で暮らしている画家の堂本真美さん(84)が60年前、パリのサンージェルマン・デ・プレで思いがけなく聴いたジュリエット・グレコさん(84)の歌だった。
「ローズ・ルージユ」という名のその地下劇場は元々、倉庫だったらしい。白いペンキを塗られただけの、れんがの壁に囲まれた狭苦しい穴倉にすぎなかった。
夜がふけるにつれて観客がひしめき合い、人いきれでむせ返りそうだったという。
いまとなっては、なにが歌われていたのか、記憶は定かでない。
だが、不意に柔らかな唇を押しあてられたように、孤独だった心のこわばりがほぐれ、陶然として涙を止められなくなったことは生々しく覚えている。
広島県出身の堂本さんは1950年6月、パリの画学生となるため、フランス客船マルセイエーズ号で旅立った。
同じ船にリヨン大学へ留学する故・遠藤周作が乗り合わせていた。
パリではサン・ジェルマン・デ・プレととモンパルナスの中間にあるアパルトマンに下宿した堂本さんは最初の1年余、ただの一人もほかの日本人と出くわさなかったという。
グレコさんのシャンソンに聴きほれ、涙したのはその間のことだ。
パリの空の下を流れるセーヌ川。
下流に向かって右の北側が右岸(リブ・ドロワ)、向かって左の南側が左岸(リブ・ゴーシュ)と呼びならわされる。
シャンゼリゼ大通りやルーブル美術館などがある右岸は「消費」の中心地だが、学生街のカルチエラタンや芸術家がたむろするモンパルナスなどがある左岸は「思索」の領土といえる。
その左岸にあるサン・ジェルマン・デ・プレは第2次世界大戦直後、サルトルら実存主義の哲学者と彼らに心酔する若者、ジャズミュージシャンらが入り乱れるように集結し、知の最新モード(流行)の解放区のような有り様になっていた。
グレコさんはそのとき、「サン・ジェルマン・デ・プレのミューズ(詩の女神)」とたたえられる実存主義の偶像だった。
堂本さんは、こう回想する。
「戦争中に抑圧されていた芸術と文化のエネルギーがいちどきに爆発して、まさにパリは、そこで燃えていました」
いまなお歌い続け、懐古を嫌うグレコさんも、その時代には特別な思い入れがある。
「だれもが平等で、拒まれることはなかった。知性と才能さえあれば、お金がなくても生きていかれた。まるで覚めない夢を見ているようでした」
だが、現実世界に出現したユートピアはやはり、白昼夢のようにかりそめのものだった。
文・保科龍朗
「パリの空の下」(中村敬子訳)JASRAC許諾 今朝の朝日Beから。
パリの屋根の下
ひとつの歌が流れてゆく
ひとりの若者の心の中で
今日生まれた その歌
パリの空の下
恋人たちが歩いてゆく
流れるメロディーの上に
ふたりの幸せが築かれる

ベルシー橋の下に座る
ひとりの哲学者
ふたりの音楽師 その見物人
さらに たくさんの人々
パリの空の下 日暮れまで
古い都パリを愛する民衆の
賛歌が流れてゆく

ノートルダムの近くには
時どきドラマが隠れている
けれどパリでは
すべてがうまくおさまる
夏の空から 兪す光
船頭の奏でる アコーディオンパリの空の下 希望は花開く
(中村敬子訳)  JASRAC許諾
  
「パリの空の下」(原題“Sous le ciel de Paris”)は、シャン・アンドレ・ドレジャツク作詞、ユベール・ジロー作曲。
いまやパリの主題歌ともいうべきこのシャンソンは、1951年に製作されたジュリアン・デュビビエ監督の映画「巴里の空の下セーヌは流れる」=写真、協力・川喜多記念映画文化財団=の挿入歌だった。
多くの歌手に歌い継がれ、グレコさんは、外国でのコンサートではかならず序盤で「国旗を掲げるように」この曲を歌うという。

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