母への手紙:使命を生きる
闘病生活を送る作家が、亡き母への深い想いと感謝を綴ったエッセイ。
人生の苦難を乗り越え、「感謝」を胸に生きた母の姿を振り返り、自らの使命を全うして生き抜く決意を語る。
著者が「生きる確率25%」と宣告された大病で北野病院に入院中に綴った記録。輸血を繰り返しながら、母の「感謝」の人生を思い起こし、自身の使命を「書き続けること」と定める。東日本大震災で母を失った無念と、霊的な出会いを描き、必ず95歳まで生きて使命を果たすと誓う。
この10月末に貴女に戦後最高の本、日本一の本を贈る。
2011年10月08日
「悪党は皆殺し」戦いの中、第三段階の中で、昨日は一番しんどい日だった。
殆ど一日中をベッドで現(うつ)ら、うつらしていたようなものだった。
例えば、アメーバで「読みましたよ」とペタを着けて頂く読者の方たちに対する、ペタ返しを為すのも、しんどいほどの。
それでも私は、知人のUさんにお願いしてペタ返しをして頂いた。
何故?…普段、何気に励みに成っている事なのだから…作家から読者の方への「有難う」の言葉、それが私に於けるペタ返しだから。
正直言って私の母親の人生は全く幸福なものではなかった。
それでも「感謝」と言い続けた、全く、その様に、観音様の様にして生きたお母さん。
あなたは偉い。
私の周囲に居た方達は御存じの様に、私はエネルギー無尽蔵人間の見本の様な男だったから、物心着く以前、記憶される以前の幼年時代に、当時流行したという疫痢を患って死にかかったが、父親が仙台市立病院長と昵懇だったお陰で一命を取り留めた、と母親から聞いた以外は、
入院なぞした事が無い人間だった。
だから、当然ながら輸血等はした事もなかった。
今回の戦いは尋常ならざる戦いだから、毎回のステージに於いて輸血が必要と成るのである。
私は、この時に、いつも思うのだ。
人は常に他者に依って生かされ生きているのだと。
それは決して家族の事では無い…私の周囲に居た方達は、私が、美味しい飲食と共に、何時も言っていた事だと直ぐに思われるはず。
母親は…それは私には悲しい事でもあるのだが、私と全く同じ深い意味で言っていた事に、今、気が付いた。
お母さん、私は頑張っているし、必ず勝利して、貴女が、神様が与えてくれた寿命(我が家の場合は95歳で在った事は貴女も良く知っての通り)少なくとも、95歳まで、私は生きて、私の使命を果たし続ける。
私の使命が、書くこと、書き続ける事に在ったことを知らずに、貴女が死んでしまった事、それも津波に飲みこまれて…
兄弟たちとの縁切り宣言のような事があったから、終に貴女に会いに行かずいた時に。
誰だって、まさか、こんな事になるとは思いもしなかった訳だが、私は、虫の知らせの様に、何度も、老人ホームに居るという貴女を見舞いに行って(プレゼント用のPCを持って)、僕が書きだした事を、毎日書いている事を伝えねばと思い続けていた日々に、突然、3月11日が訪れた。
だから、私は、幾重にも無念なのだが、貴女が私を見守ってくれていることは、二条城で家康殿から聞いた。
知恩院の方丈の庭で、或る松の木の姿に成って一瞬の光で私の前に現れた貴女を感じた。
この10月末に、貴女に、戦後最高の本、日本一の本を贈る。