日経新聞、日曜版「美の美」与謝蕪村を今読んで。…与謝蕪村に贈る。
日経新聞、日曜版「美の美」与謝蕪村を今読んで。
初めて知った事の幾つかが有り、ウィキペディアで調べて見た。
与謝 蕪村(よさ ぶそん、享保元年(1716年) – 天明3年12月25日(1784年1月17日))は、江戸時代中期の日本の俳人、画家。
本姓は谷口、あるいは谷。「蕪村」は号で、名は信章。通称寅。「蕪村」とは中国の詩人陶淵明の詩「帰去来辞」に由来すると考えられている。俳号は蕪村以外では「宰鳥」、「夜半亭(二世)」があり、画号は「春星」、「謝寅(しゃいん)」など複数の名前を持っている。
摂津国東成郡毛馬村(ひがしなりごおり けまむら)(大阪市都島区毛馬町)に生まれた。
…中略。
その後丹後、讃岐などを歴遊し42歳の頃京都に居を構えた。この頃与謝を名乗るようになる。母親が丹後与謝の出身だから名乗ったという説もあるが定かではない。
与謝蕪村の墓
45歳頃に結婚し一人娘くのを儲けた。島原(嶋原)角屋で句を教えるなど、以後、京都で生涯を過ごした。明和7年(1770年)には夜半亭二世に推戴されている。
京都市下京区仏光寺通烏丸西入ルの居宅で、天明3年12月25日(1784年1月17日)未明68歳の生涯を閉じた。死因は従来、重症下痢症と診られていたが、最近の調査で心筋梗塞であったとされている[1]。辞世の句は「しら梅に明(あく)る夜ばかりとなりにけり」。
墓所は京都市左京区一乗寺の金福寺(こんぷくじ)。
*金福寺は詩仙堂の近所に在って、一度、行った事があるようなないような。しかして、彼の墓を観た事があるようなないような。
冒頭の日経を読んだ後なら、必ず訪れ、写真を撮り、永久に記憶に焼き付けていただろう。

2012/6/9、京都府立植物園にて。