帰京…ウィキペディアから。

帰京

62、3歳の頃に帰京する。帰京後は、著作活動に励むようになる。親鸞が帰京した後の東国(関東)では、様々な異義異端が取り沙汰される様になる。

帰京の理由

確証となる書籍・消息などが無く、諸説あり推論である。また複数の理由によることも考えられる。

天福2年(1234年)、宣旨により鎌倉幕府が専修念仏を禁止・弾圧したため。

弾圧から逃れるためだけに、東国門徒を置き去りにして京都に向うとは考えにくく、また京都においても専修念仏に対する、弾圧はつづいているため帰京の理由としては不適当という反論がある。

主著『教行信証』を、「経典」・「論釈」との校合のため。

鹿島神宮には経蔵があり、そこで参照・校合作業が可能という反論がある。ただし、親鸞が鹿島神宮を参詣したという記録は、江戸時代以前の書物には存在しない。また、鹿島神宮の経論釈は所蔵以来著しく年月が経っており、最新のものと参照校合するためには、当時一番早く新しい経論釈が入手できる京都に戻らなければなかったとする主張もある。次の説とも関係を持つ説である。

東国において執筆した主著『教行信証』をはじめとする著作物の内容が、当時の経済・文化の中心地である京都の趨勢を確認する事により、後世に通用するか検証・照合・修正するため。

現代と比較して、機械的伝達手段が無い当時は、経済・文化などの伝播の速度が極めて遅く、時差が生じる。その東国と京都の時差の確認・修正のために帰京したとする説。

望郷の念によるもの。

35歳まで京都にいたが、京都の街中で生活した時間は得度するまでと、吉水入室の間と短く、また晩年の精力的な著作活動を考えると、望郷の念によるとは考えにくいという反論がある。

著作活動に専念するため。

当時62、3歳という年齢は、かなりの高齢であり、著作活動に専念するためだけに帰京したとは、リスクが大きいため考えにくいという反論がある。


2012/6/16、京都府立植物園にて。

コメントを残す

メールアドレスが公開されることはありません。