入滅 と本願寺の成立 …ウィキペディアから。

入滅

弘長2年(1262年 )11月28日 (グレゴリオ暦換算 1263年1月16日 )、押小路(おしこうじ)南、万里(までの)小路東の「善法院」(弟の尋有が院主の坊) にて、享年90(満89歳)をもって入滅する。臨終は、親鸞の弟の尋有や末娘の覚信尼らが看取った。遺骨は、鳥部野北辺の「大谷」に納められた。 流罪より生涯に渡り、非僧非俗の立場を貫いた。

現在でも親鸞への報恩感謝のため、祥月命日には「報恩講」と呼ばれる法要が営まれている。

荼毘の地は、親鸞の曾孫で本願寺第三世の覚如の『御伝鈔』に「鳥部野(とりべの)の南の辺、延仁寺に葬したてまつる」と記されている。

頂骨と遺品の多くは弟子の善性らによって東国に運ばれ、東国布教の聖地である「稲田の草庵」に納められたとも伝えられる。

本願寺の成立

文久9年(1272年)(親鸞入滅より10年後)、親鸞の弟子たちの協力を得た覚信尼により、「大谷」の地より「吉水の北の辺[注釈 36]」に改葬し「大谷廟堂」を建立する。(永仁3年(1295年)親鸞の御影像を安置し、「大谷影堂」となる。)

元応3年(1321年)、「大谷廟堂」は本願寺第三世 覚如により寺院化され、「本願寺」と号し成立する。(応長2年〈1312年〉に、「専修寺」と額を掲げるが、叡山の反対により撤去する。)

寛正6年(1465年)に、延暦寺西塔の衆徒により破却される(寛正の法難)まで、本願寺はこの地にあった。法難時の宗主は、本願寺第八世 蓮如。

2012/6/16、京都府立植物園にて。

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